この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
 バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。


 ブウウウウウン

 ポケットの中で、軽い振動。
 ほぼ受信専用になってしまっている私の携帯に、連絡が入ります。
 番号は登録されているので、一目で仕事と分かりました。

「はい、天野です」
「あ、美汐ちゃん? 今から大丈夫?」

 女性の声。
 オペレーターをやっている、あかねさんです。

「はい、今月は苦しいので、無理でも行きます」
「あ、バイク買い替えたんだったね。またJOG?」

 会社には、スクーターを買い換えた際に連絡を入れてあります。

「ええ、今度は新車のZRです」
「色は……白か、うん、美汐ちゃんにはこっちの方が似合ってるよ」
「単に、傷や汚れが目立たないから選んだだけですが」
「『赤と黒』の最速伝説が終わり、『白き追撃手』の物語が始まるんだね」
「なっ……」
「なぜそれを? 甘いわよ、美汐ちゃん。ライダーの間の噂で私の耳に入らないものは無いんだから」
「………」

 この恥ずかしい噂話、知らないのは私だけだったようです。

「……そのお話はいいですから、お仕事の方を」

 私がそう言えるようになるまで、しばらくかかってしまいました。



美汐のスクーター日記
『バイク便ライダー』



 私は、アルバイトでフリーランスのバイク便ライダーをやっています。

 この北の地にバイク便があるのか、疑問に思う方も居るかも知れませんが、バイクにも車種によってチェーンやスノータイヤが用意されています。
 もっとも、新聞、郵便配達のカブ以外で利用しているのは、よほどの物好きしか居ませんが……

 それとは別に、この街にバイク便があるのか、といえば答えはNoです。
 私が依頼を受けているのは、ここからはだいぶ距離のある大きな街のバイク便会社です。
 そのバイク便会社のお得意様がこの街には居るのですが、自社の社員を使おうとすると、まず向こうの事務所からこちらまで出向く必要があります。
 スピード重視のバイク便がそれでは、都合が悪いわけで。
 とある縁から、私がそれを受けるようになったのでした。


 帰宅して、手早く着替えます。
 スカートでスクーターに乗る趣味はないので、カジュアルなライダージャケットの下は、パンツスタイル。
 足下を固めるのは、防水透湿素材を使用したハイカットシューズです。
 数度の転倒から私の足を守ってくれたそれの表面には、いくつかの傷が走っていますが、それでもまだまだ現役で使える頑丈なものです。

 庭の駐車スペースで私を待つJOG−ZRに歩み寄りながら、リモコンを使って集中ロックを解除。
 ウィンカーが数回点滅して応える姿が、何だか可愛いですね。
 購入した当初は余計なものとしか思えなかったリモコンですが、使ってみるとやはり便利です。
 特に夜、駐車スペースに明かりが無いときには重宝しています。

 後輪に通していたU字ロックを外すついでに、タイヤの空気圧を指先で確かめるのはいつものこと。
『○×ライダー便』というステッカーが貼られた、仕事用のトランクケースをリアキャリアに取り付けて、彼(ZR)の方の準備は完了です。

 メットイントランクから、ヘルメットを取り出して被ります。
 転倒の経験のある私には、スクーターにありがちなハーフヘルメットは保護の面で不安に思えます。
 かと言って、フルフェイスは息苦しい感じがするので、ジェット型を愛用しています。
 色は白。
 きっちりあごひもを絞め、グローブも身につけます。

 key−onで電源が入ると、校正のためにメーター類の指示が一瞬跳ね上がり、動作良好を知らせてくれます。
 セルを回すと、エンジンは1回で始動しました。
 軽快なアイドリング音をBGMに、習慣になった燈火類の点検。
 車などと違って、小柄なスクーターならすぐに済みます。

「それでは行きましょうか……」

 三連音叉マークがあしらわれているメーターパネルに、指を滑らせながら呟きます。
 そして、私は夕暮れの街へと走り出したのでした。




 大きなお屋敷の前にスクーターを止め、いつものように荷物を受け取り、いつものようにトランクに入れる。
 依頼者との会話は最小限。

「『問わず語らず』がこの手の仕事(ラン)の流儀」

 私をこの仕事に引き込んだ先輩ライダーは、そう教えてくれました。

 本来、バイク便会社ではフリーのライダーを使いません。
 信用が第一の仕事ですから。
 それゆえ、フリーランスのバイク便ライダーに回ってくる仕事は、正社員を充てられないような……限りなく灰色な仕事であることが多いのです。
 割はいいが、リスクがあり得る『ラン』。
 私の場合は少し事情が違いますが、それでも用心するに越したことはないでしょう。




 国道を南進、市街地を抜け峠に入ります。
 夕暮れ時のこの時間、国道を走るのは、ほとんどが帰宅する会社員が運転する乗用車になります。
 通い慣れた道であることと、早く帰宅したいためか、みな追い越し車線に入ってどんどんと飛ばしているので、流れは良いです。
 私はかえって空いている登坂車線をフルスロットルで駆け上がりました。
 原付スクーターとはいえ、スポーツタイプのモデルの加速は、軽乗用車ぐらい軽く上回ります。
 上り坂でも全く苦労することはありません。

 スピードに乗ったまま、思い切った体重移動でコーナーを駆け抜ける……
 こうして走っていると前のマシンとの違い、同じJOGでも、10年分の技術進歩の差を実感しますね。

 エンジンに馬力さえあれば、10年前の車体でも、速いものは速いのです。
 ただ、以前の車体では軟弱すぎる足回りなどのせいで、決して平坦とは言えない公道上で「速く走らせる」のは大変でした。
 段差を拾って動揺する車体を身体を使って抑え込み、加速に山や谷のあるエンジン特性に合わせてスロットルを調整する……
 それが、ガスショックなどの足回りの違い、そして最高出力こそ低下しているものの、中低速域の加速に優れた扱いやすいエンジン特性などにより、「簡単に」スピードが出せるようになっていました。
 路面に段差があっても吸い付くように追従し、その後、車体を乱すことがありません。
 市街地での走行を想定しているのか、リアサスが柔らかすぎることを除けば(それでも以前に比べたら遙かに良くなっています)不満らしい不満は感じられませんでした。



 車の流れに乗って快調に飛ばし、日が暮れた頃に配達先に到着。
 荷物の受け渡しをした後、ライダー便の事務所に顔を出して報告と精算を行います。

「お疲れさま、美汐ちゃん。これ今回の分ね」

 あかねさんから、報酬を受け取ります。
 正社員とは違ってガス代以外、全部自分持ちとは言え、それが問題にならないほど割は良いです。
 はしたないようですが、その場で額を確認して懐に納めました。
 これもこの仕事の流儀なのですが、未だに慣れませんね。
 とは言え、自然と身に付いてしまっていたポーカーフェイスのおかげで、表情に出ることはないのですが。


 その後、あかねさんにつき合い、近くの居酒屋「雀屋」で夕食。
 ちなみに、あかねさんはともかく、私はアルコールは摂りません。
(当たり前ですが)
 ここは、バイク便の事務所から近いこともあって、バイク便ライダーの方々がよく利用しています。
 それゆえ、あかねさんのような常連にはアルコール抜きの食事も出してくれるのです。

 それにしても、ここは不思議なお店で……
 幅広いメニュー、節操のないほどの多国籍料理が売り物なのですが、メニューの中に雀の焼き鳥や鯨のベーコンがあったりするのはともかく、

『ワニ肉入荷』

 とか、

『カンガルー肉、近日輸入予定』

 などといった札がかかっているのが……

 それはともかく、あまり遅くなるのも困りますし、あかねさんもまだ仕事があるため、二人とも軽く雑炊を食べて引き上げることに。
 ちなみに、カワハギが入荷していたので煮付けを注文して、あかねさんと半分こして食べました。
 とてもおいしかったので、今度自分でも作ってみようと思います。


 事務所に戻ると、控え室で数人のライダーの方々が談笑されていました。
 私は一礼してZRに乗りましたが、その後で、なぜか大きなどよめきが上がっていました。

「赤と黒……」
「噂の……」

 などといった声が聞き取れたのは、多分、気のせい……
 気のせいだということにして走り去ります。




 すっかり暗くなってしまった道を、ひた走る……

 この辺のガソリンスタンドは、19:00を過ぎると大抵閉まってしまうので注意が必要です。
 以前乗っていたJOGスポーツは、ガソリンタンクの容量が公称3リットル、満タンにしても3.6リットルがせいぜいでしたから、かなり不安な思いをしました。
 何しろ本気で飛ばすとリッター30キロを割る燃費でしたので、ガス欠で立ち往生する危険があったのです。
 おかげで遠出の際は、アウトドア用ガソリンストーブの燃料ボトルに予備のガソリンを入れて、お守り代わりに持ち歩くようになってしまいました。
 今のZRでは、燃料タンク容量もほぼ倍になりましたし、燃費も改善されているので、かなり安心できるのですが。



 赤信号で停車。

 左手首を返すと、ワンテンポ置いて闇の中に文字盤が浮かび上がります。
 19:43
 仕事のおかげで、すっかり24時間表示に慣れてしまいましたね。

 ちなみに手首に巻かれているのは、CASIOのSPORTS GEARです。
 アスリート向けの腕時計で、走りながらタイムを確認するためでしょう、大きめの時刻表示と、時計の傾きで自動発光するオートライト機能を備えています。
 陸上部の部長である名雪先輩は知っていたらしく、
『天野さん、マラソンでもするの?』
 と不思議そうな顔をして聞かれましたが、実際にはこうして、夜間走行中にも簡単に時刻が確認できるために選んだものです。
 グローブを付けた指では、腕時計の小さなライトスイッチは押しにくいですからね。
 相沢さんは、CASIOならGショックだろうと主張されましたが……

『相沢さん、30メートルの高さから落下しても大丈夫と言うことでしたが、腕時計がそうなるということは、身につけていた人間はどうなっていると思います?』
『そりゃあ……』
『私はそんな目に遭っている時にまで、時刻を確かめたいとは思いません』
『むぅ……』

 実は、この私の主張はただの悔し紛れで、よく考えると破綻があります。
 本当は、Gショックはごてごてしてかさばるのと、その割に肝心の時刻表示が小さいのが気に入らなかったのです。
 ただ正直に言うと、あの人のことです、老眼だのおばさんくさいだの絶対に言うに違いありませんから。

 それに、このSPORTS GEARは、アスリート向けの時計だけあって、非常に軽いのです。
 幅広のバンドを使っていることもあって、締め付けられる感じが全くしません。
 肌が弱く、女性用の小さな腕時計を付けただけで跡が残ってしまう私でしたが、この時計だけは、そういうこともなく使えています。



 ……信号が青に変わりました。

 横道に逸れた思考を戻し、アクセルを開きます。



 最近、気が付けば、相沢さん達のことを考えている私が居ます。

 以前は……
 全てを忘れたくて、一人になりたくて走り続けていたはずなのに。



 鋭い加速で走り出すZR。
 体勢は前傾姿勢。
 たかが原付と油断すると、ウィリーしてアクセルを戻せず、そのまま転倒という羽目に陥ります。
 スポーツタイプのスクーターは、それほどのパワーを持っているのです。
 実は以前のマシン、父のJOGスポーツを乗り始めた頃に数回、それが元で転倒したことがありました。
 今思えば笑ってしまうような、でも必要な経験だったのでしょう。


 本当は……無駄なことなんて、何一つ無いのかも知れません。
 日々重ねられる、無為の中にある有為。
 喜びも、痛みも。
 それらがあってこそ、今の私が居ます。



 最後の峠を駆け上がり……
 トンネルを越えれば、私達の住む街が見えてきます。



To be continued



■ライナーノーツ

>『ワニ肉入荷』
>『カンガルー肉、近日輸入予定』

 名古屋に実在するお店がモデル。
 これらの肉はAmazon経由でも売ってくれます。



>アウトドア用ガソリンストーブの燃料ボトル

 連載時はシグボトルと商品名を挙げていたのですが、気付けばシグの燃料ボトルは市場から消え、全部水筒になっていました。
 今なら、MSRの燃料ボトルでしょうか。
 アウトドア用のガソリンコンロに接続して使うもので、高い信頼性を持ちます。
 ガソリンを入れるのですから、下手な容器に入れて漏れたりしたら大変ですからね。


 美汐が使っている時計はCASIOのSPORTS GEAR。
 時計を傾けるだけでオートでバックライトが点灯する。
 夜間にボタンを押さずとも時刻が確認できるためバイク、スクーター、自転車などに乗っている時は便利。

Tweet

次話へ

前話へ

トップページへ戻る

inserted by FC2 system