この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
「……はい。ええ、それでは切りますね」
「どうだ、天野?」
「秋子さん達の車は、まだ渋滞を抜けてないそうです。どうやらバイパスで事故があったようですね」
「それで、こっちにみんな流れてきたのか……」
「えぅ、どうするんですか?」
「待つしかないだろ。幸い眺めはいいし」
「空気はおいしいし、ですね」
眼下には、今さっき上ってきた峠道と、色づき始めた木々が見事な景観を作り出していました。
美汐のスクーター日記
『ポケットの中には』
峠の頂上近くにある小さな駐車場。
そこに相沢さんが倉田先輩からお借りしたフュージョン、そして私のZRを並べて停めてあります。
それぞれのシートをベンチ代わりにして一休み。
「えぅ、お姉ちゃん達、大丈夫でしょうか?」
「焦っても仕方ありませんよ、栞さん。先ほどいただいたリンゴ、食べませんか?」
「あ、はい……」
こういう時には、トラブルを楽しむぐらいの感覚で、のんびりと構えるのが吉です。
ちなみに、今回が栞さんの初ツーリングなのですが……
ちゃんとしたスネル規格のヘルメットはもちろんのこと、一流品のブーツにグローブ、極めつけはエアバックジャケットという完全装備。
栞さんがご家族からいかに大切に想われているかが、分かるというものです。
「それじゃあ、俺は飲み物買ってくるけど、二人とも何がいい?」
「はい?」
「ほれ」
相沢さんが指し示す方向には、こんな山中なのに何故か自販機。
……最近は山の中も便利になったものです。
「それでは、オレンジジュースを」
「何だ天野、無理しなくてもお茶「オレンジジュースを」 ……むぅ、栞は?」
「わっ、私もオレンジジュースです」
「ん、分かった」
全く、この人は……
ともあれ、携帯用のウェットティッシュで手を拭いてから、ポケットからナイフを取り出し、リンゴを割ります。
くるくると回しながら剥くのもよろしいのですが、はっきり言って割ってから剥いた方が簡単です。
……主婦の知恵とか、おばさんくさいとか聞こえてきそうですが。
そうこうしている内に、相沢さんが戻られます。
「おっ、アーミーナイフだな。ビクトリノックスか?」
「はい」
興味を引かれたのでしょう、私の手元を覗かれて、相沢さん。
赤いハンドルと十字マークのツールナイフで有名な、スイスアーミーナイフ。
ビクトリノックスとウェンガーという2つのメーカーがあるわけですが、私はビクトリノックスのものを愛用しています。
あまり分厚いものは常用に向きませんが、薄めの軽いものを1つ用意しておくと、ツーリングに限らず、日常生活でも便利です。
「はい、栞さん」
「あ、ありがとうございます」
「天野、俺の分……」
「はい、今剥きますから」
何だか雛を前にした親鳥にでもなった気分です。
でもまぁ、こうして自然の中でのんびりしていると、それもいいかと思えてしまいます。
「はい、相沢さん」
「待てい、何故にうさぎさん!?」
「ダメですか?」
可愛いと思うのですが。
「わっ、祐一さんだけずるいです」
「なら交換だ、栞」
「えっ、祐一さん……」
「(シャクッ)……ん? どうした栞」
「い、いえ何でもありません…… (それ、私の食べかけです……)」
「おい、ぼんやりしてると落とすぞ」
「えっ? あっ、えぅ〜っ!」
「……地球に食われたな」
本当、見ていて飽きない人達です。
「しかし、天野がアーミーナイフを使っていたとはな。車載工具代わりか?」
リンゴを剥き終わり、アーミーナイフをウェットティッシュで拭っていると、相沢さんにそう聞かれました。
「いえ、それは別に積んでますよ」
メットインを開けて、底の方から取り出して見せます。
折り畳まれた2本の柄の内、片方を持って振り出すとプライヤーに。
「おっ、レザーマンか? しかも初代だな」
「ご存知でしたか」
レザーマンと言えば、プライヤー付きツールナイフの元祖みたいなものですが、私が車載工具代わりにZRに積んでいるのは、以前、父が使っていた古いものです。
確か、日本で有名になる前、輸入雑貨のディスカウント店で安値で売られていたのを買ってきたとか。
「何だか、映画みたいです〜」
「ああ、これですか?」
もう一度折り畳んでから、振り出して見せます。
香港映画などで見られる、バタフライナイフのようなアクション。
レザーマンでこれをやろうと思うと、かなり使い込んで可動部をゆるくしないといけないんですけどね。
使い古した、父のお下がりだからこそできることです。
「でも、初代はプライヤーを使うときにハンドルが手に食い込んで痛いだろ」
「スクーターに乗るときは、必ずグローブをしますから、問題ありませんよ」
「ああ、そうか」
「まぁ、めったに出番はありませんがね」
実際、以前乗っていたJOGスポーツでも、現場で修理しなければ走れないような目には、あったことがありません。
国産スクーターというものは、それほど頑丈なものなのです。
(下手にカスタムしないノーマル状態でなら、というお話ですが)
大体、車載工具、付いてこないくらいですからね。
「保険みたいなものです」
そう締めくくり、メットインの底に戻します。
しかし……
「ん? そういえば天野、最近、ZRのリモコン使っていないようだけど、どうかしたのか?」
「……できれば気付いて欲しくなかったですね」
「はぁ?」
「実は先日、リモコンを真琴に渡したら、メットインに閉じこめてしまいまして……」
カッチ カッチ ガチャッ
ゴソゴソ
パタン
「肉まんあったよー、美汐ーっ」
「はい、ありがとうございます真琴。メットイン、ちゃんとリモコンで開けられたようですね」
「うんっ」
「……で、リモコンと鍵ですけど」
「………?」
「真琴? まさかとは思いますが……」
「あぅ〜っ!!?」
「……メットインの中ですか」
「ということがありまして、それ以来、使うのは止めているのです」
幸い、家まで歩いて帰れる距離でしたから、予備のキーを持ってきて、事なきを得ましたが。
「あいつは……」
「相沢さん、真琴を責めないでやってください。私自身、何度かやりそうになったことがあって、危ないとは思っていたのですから」
メットインに鍵を閉じこめるなど、以前乗っていたJOGスポーツなら、まず考えられなかったことなんですけどね。
何しろ、鍵穴にキーを差し込まない限り開きませんし、メットインを閉じる前にキーを抜くことなどあり得ませんでしたから。
「便利なリモコンの落とし穴ですね。キーを使わずともメットインが開けられるのはいいのですが、置き場所に困ったリモコンとキーを、ついメットインの中に置いてしまうのです」
そして、そのままメットインを閉めて、青くなると。
車のドアなどと違ってオートロックですからね。
「それで、リモコン使うの止めたのか」
「ええ。それに、リモコンは確かに便利ですが、限られたポケットのスペースを割くほどかと言いますと、疑問ですし」
物を詰め込み過ぎてポケットを膨らませるのは趣味ではありませんし、夏場など、薄着をするとポケット自体が足りなくなってしまいます。
フラップの付いていない上着のポケットなど、服によっては、走行中の振動やショックでポケットの中身を落としてしまうことだってありますし、身に着けられる品は限られるのです。
携帯、お財布、大判のハンカチ(誰です、おばさん臭いとか言う人は)、ポケットティッシュ、鍵、ナイフ、ミニライト。
そして、ある方からいただいて以来、お守り代わりに持ち歩いている磁石、温度計付きのガスライター。
女性のたしなみとして、ブラシ、鏡(ZRのミラーでよく間に合わせるんですけどね)リップ等は欠かせませんし、携帯用のウェットティッシュやバンダナ、簡単な救急セットなども余裕があれば持ちたいですね。
利用頻度が低いものは、非常食(カロリーメイトですけど)や水、雨具や地図などと一緒にバッグの中でも構わないのですが。
「まぁ、某ドラさんのポケットじゃないんだから……」
「入れたい物を全部入れられるポケットなんて……」
そうして、相沢さんと二人で固まります。
「え、えぅ、何で二人とも、私を見るんですかっ!?」
「い、いえ、何でも……」
そそくさと視線を外す私。
「そうだな、四次元の使い方なんて、俺は知らないし」
「私はそんなの、使ってません!」
「いや、だってなぁ……」
「えぅ〜っ!」
「うぐぅ〜っ!」
栞さんの「えぅ〜」に「うぐぅ」で対抗する相沢さん。
……やれやれです。
またあゆさんに怒られますよ。
「よっ」
飲み終わったジュースのアルミ缶を、ひねって畳むように縦に潰して行く相沢さん。
「わっ、凄いです」
「ゴミはかさばらないようにして持ち帰らないとな」
仕上げにブーツで踏みつぶして平らに。
「はぁ、それは良い心がけですが、普通に踏みつぶせばいいじゃないですか」
私は横にした空き缶の真ん中を踏んで潰します。
その後、両脇を踏んで、平らにしてお終いです。
「分かってないな、それじゃ面白くないだろ」
「いくら面白くても、その方法は非力な女性には無理です」
「あ、それじゃあ私も……」
あ、栞さん……
「えうっ!?」
「おっと!」
やっぱり……
「大丈夫ですか? 栞さん。缶を潰すときには転がらないよう気を付けないと」
「えぅ、手が汚れちゃいました」
「……怪我はないようだな」
相沢さんがとっさに支えて下さったおかげでしょう。
右手を土で汚した程度で済んだようですね。
「水、ありますからすすいで下さい」
私は遠出する際、プラティパスという折り畳み水筒に水を入れて行きます。
ジュースの類はお金さえあればどこでも手に入りますが、真水は入手しにくいので。
喉を潤す他、怪我をした時に傷口を洗ったり、ハンカチに浸して熱射病の手当に使ったり、熱ダレを起こしたスクーターを冷やしたり応用がききますからね。
それに、出かけた先で湧き水があったりすると、汲んで帰ることもできますし。
「石鹸もありますよ」
「はい? あ、これ……」
「何だそれ?」
「近所の駄菓子屋で売っていましたので。結構便利ですよ?」
紙石鹸です。
いささか古風かも知れませんが、女の子の嗜みですね。
「懐かしいです〜 小さい頃、連れて行ってもらった駄菓子屋さんでお姉ちゃんに買ってもらったんです。女の子なんだから、綺麗にしないとだめよって」
「そうですか……」
「……でも本当は、違っていたんですよね。私、その頃から身体弱くて。お姉ちゃんも本当は、だから清潔にしないと駄目だって言いたかったんだと思います」
けれど、そうは言わなかった。
「……その頃から香里先輩、栞さんのことを本当に大切にされていたのですね」
「え、えぅ」
照れたように顔を伏せる栞さん。
本当、微笑ましいです。
ブウウウウウン
ポケットの中で不意に起こる振動。
「天野?」
「はい、電話ですね」
「噂をすれば、か?」
苦笑混じりに相沢さんが言われる通り、秋子さん運転の車に乗っている、香里先輩からでした。
頷いて、通話ボタンを押します。
「はい、天野です――」
To be continued
■ライナーノーツ
美汐が使っているビクトリノックスの折り畳みナイフはコンパクトというモデル。
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