この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
「天野ーっ、花火見に行くぞー」
「はい? この時期の花火大会って言ったら、あの○×市の花火大会ですかっ!?」
あれって、最近は全国中継されるくらい有名で、場所取りや交通が酷く大変と聞いてるのですが。
「佐祐理さんの伝があるらしくて、招待してくれたんだ。だから場所は心配しなくていい。まぁ、足は自分で確保しなきゃいけないから、スクーター組みのメンバーだけになってしまうけどなー」
すり抜けする訳ですか……
って、ちょっと待って下さい。
「それって、私とあゆさんと、相沢さんと……」
「佐祐理さんと舞は、準備があるから先に行って待ってるって話だ。あと、七瀬も呼んで、俺の後ろは真琴。あ、名雪は部活の合宿で欠席な」
「で、でもそれじゃあ、栞さんと香里先輩は……」
「……残念だが栞は頭の病気で」
頭っ!?
「その言い方は酷すぎるんじゃない、相沢君」
「香里先輩……」
「確かに、『夏風邪は馬鹿がひく』って言うけど」
風邪ですか……
心臓に悪い冗談は止めて頂きたいものです。
美汐のスクーター日記
『花火大会と浴衣と』
「あたしは栞の看病しているから、気にせず楽しんできてね」
「え゛ぅ〜っ!」
などというやりとりもありましたが、何とか皆で出発。
無事、倉田先輩が招待して下さった場所へと着いてスクーターを停めたのですが。
「それにしても、ずっとすり抜けで疲れましたね」
「ストップアンドゴーの繰り返しだったからな。ミッションだったらクラッチ操作で指がつっている所だったぞ。オートマのスクーターはこういう時楽だよなー」
うんうんと頷く相沢さん。
普通二輪免許持ちですから、当然、普通のミッションバイクも経験されているんですよね。
「それにすり抜けは色々と神経使うもんね。車の間から人が飛び出したりとか。ブレーキも重要ね」
そう仰る七瀬さんのBW’Sは、ブレーキが強化されているようです。
ステンレスメッシュのブレーキホースが眩しいですね。
ブレーキキャリパーやマスターシリンダーなども替えているんでしょうか?
最近は、後付のスクーター用ABSもあるというお話ですし。
まぁ、私も余裕を持ってブレーキパッドを交換して置いて良かったです。
と、
「おお天野、ブレーキパッド替えたんだな。珍しく純正以外…… デイトナのゴールデンパッドか」
私のZRのフロントブレーキを見て目ざとく指摘したのは相沢さん。
「意外ねー。最速の乙女、最強のJOG使いの天野さんなら、最低でも赤パッドかと思ってたのに」
それを聞いてのコメントは七瀬さんでしたが、いい加減、恥ずかしい呼び名は止めて貰えないでしょうか。
「あぅー、赤バット?」
真琴、また漫画の影響ですか?
「馴染みのバイク屋に行ったら、丁度これしか無かったので、替えてもらっただけですよ」
まだ少し余裕はあったので、純正品を取り寄せても良かったのですが。
昔、何も知らない頃、パッドが紙の様にペラペラになるまで気付かないで使って、危うくブレーキディスクを傷付けそうになったことがあったので、やはりその場で交換してもらったのでした。
説明を聞いてみると、このゴールデンパッド、制動力と耐久性に優れたタイプのものでしたし。
反面、コントロール性については、七瀬さんの仰った赤パッドに劣るのですが。
「握力に自信の無い私には、この制動力は丁度いいですね」
「コントロール性の方は、腕でカバーするか。さすが天野だな」
いえ、ですから皆さんの中で私は一体どんな位置づけなんですか。
「ブレーキのカスタムというと、まずステンレスメッシュホースに交換して、マスターシリンダー、更にはキャリパーをレーシングタイプにして…… と高価なカスタムばかりに目が行きがちだけど、制動力のアップと言うとブレーキパッドの交換からだよな」
「えーっ、でもヤマハの原付スクーターだったら、ヤマンボへの交換は必須じゃないの?」
そう言えば、七瀬さんもバリバリにカスタムされた旧JOG−ZRに乗っていらっしゃいましたね。
「うぐぅ、アメンボ?」
あゆさん、それは違います。
「それを説明すると、少し長くなるのですが……」
昔のヤマハJOG−ZRには、ブレーキで有名なブレンボ社のブレーキキャリパーのライセンス生産品が使われていたのです。
ヤマハでライセンス生産されていたことから、通称ヤマンボ。
原付スクーターのフロントディスクブレーキのカスタムといったら、これを移植するのが長らく定番とされていたのでした。
「そうなんだ。チョイノリは前も後ろもドラム……ブレーキだったっけ? だったから知らなかったよ」
「まぁ、原付スクーターのフロントブレーキの場合は、正直、ドラムでもそう大きな問題になりませんからね」
ドラムブレーキは、ディスクブレーキに比べ、コントロール性に劣るのが難点ですが。
「まぁなぁ、普通のバイクの前後ブレーキ配分は7:3ぐらいだから、フロントブレーキのコントロール性はかなり重要だけど、重心が後ろに偏っているスクーターは、逆に4:6かそれ以上にリアブレーキのほうが重要になってくるからな。フロントがディスクでもドラムでも大差は無いか」
「へー、普通のバイクってそうなんだ」
「ああ、だからタイヤなんかもむしろ、フロントの方が早く減ったりするくらいなんだぞ」
さすが相沢さん、普通自動二輪免許持ち。
スクーターしか経験の無いと思われる七瀬さんや私達とは違って見識が広いですね。
「スクーターの前タイヤがぜんぜん減らないのは重心と、駆動輪じゃないって事からだと思ってたけど、ブレーキのせいだったのね」
「いや、そうだけど、減らないって言うのにも限度があるぞ。おばちゃんとかに多いけど、リアブレーキしか使えてないんじゃないだろうな」
「そう言われてみると自信が……」
七瀬さんの言われるとおり、この辺は難しいですよね。
ホンダのスクーターに採用されている、リアブレーキを引くと同時に前ブレーキにも最適な配分でブレーキをかけてくれるという、コンビブレーキが羨ましく思えたり。
「でも、それだったら前タイヤをロックさせないぎりぎりまで使うと言うのであれば、コントロール性は重要なのでは?」
ふと思ったので、口にしてみますが……
何ですか、相沢さん、七瀬さん、その微妙な視線は。
「そこまでぎりぎりの領域に拘る事のできる腕の持ち主ならではの発言だよな、今のは」
「さすが天野さん、最速の乙女ねっ!」
いえ、ですから、その呼び方は……
「あ、そう言えば、昔、バイト先の先輩に聞いたのですが」
ふと、思い出したので、話します。
「ライダーによっては、ガツンと効く制動力の高さより、コントロール性を重視する方も居て。そういう方が制動力とコントロール性を両立させる為にどうするかと言うと、性格の違うパッドを組み合わせて使うのだそうです」
片方が、制動力重視のものなら、反対側にはコントロール性重視のものというように。
余裕があれば試してみるのもいいかも知れませんね。
でも、
「……天野」
「はい?」
「それ、レースレベルの話だろ。一体、その先輩って何者…… ってか、そいういう人に目をかけられるってやっぱり天野は……」
だから、どうしてそんな目で……
「あぅーっ! たーいーくーつーっ!!」
私達の会話は、ついに爆発した真琴に遮られ、
「みなさんお待たせしましたー」
「待たせた」
そして倉田先輩、川澄先輩の登場で続けられることは無かったのでした。
「おお、佐祐理さん、浴衣かー。凄く似合ってるぞー」
本当に。
涼しげに、上品に着こなす姿は、さすがお嬢様と言った所でしょうか。
「あはは〜っ、祐一さん、お上手ですねーっ」
「いや、本当だって、なぁ、舞」
「はちみつくまさん。似合ってる」
「さて、それじゃあ、花火を……」
行こうとする相沢さんの裾を、ぎゅっと握っている川澄先輩。
「どうした舞?」
「………」
どうしたも何も無いですよね。
気付いていてやるんですから、相沢さん、本当に底意地が悪いです。
でも、
「……祐一の意地悪」
「ぐはっ!」
上目遣いに拗ねた顔をする川澄先輩にはかなわなかったようです。
この人、年上でクールなイメージがあるんですが、こういった幼い仕草も似合うのですから反則です。
普段とのギャップがこう……
「分かった。舞も似合ってるぞ」
即、ギブアップする相沢さんは少し情けなかったです。
浴衣姿の川澄先輩の頭を宥めるように撫でて。
こうなるのは分かっているのですから、最初から誉めてあげればいいのに。
「良かったねー、舞。あ、みなさんの分も浴衣ありますからどうぞ、こちらへ」
「いいんですか?」
「佐祐理のお下がりで良ければ、ですが……」
「あ、なるほど、浴衣は流行物ですからね」
納得です。
「うぐぅ、どういうこと?」
あゆさんの質問には、倉田先輩が答えてくれました。
「浴衣と言うのは、その年々によって流行があって、毎年買い換えるのが基本なんですよー。ですから、お貸しできるのは以前、佐祐理が使っていた物になってしまうんですが……」
申し訳なさそうに仰る倉田先輩でしたが、とんでもない。
貸していただけるだけでも、ありがたいというものです。
「真琴はこれー!」
「それじゃあ、ボクはこれ!」
「お二人とも、まずは丈が合うかどうかを確かめて」
色とりどりの浴衣を前に、話し合います。
幸い今回のメンバーは全員、倉田先輩のお下がりが着れる体格の持ち主ですから大丈夫ですね。
「いいですか真琴、背縫いを中心に、共襟を合わせて……」
倉田先輩と一緒に、真琴達を着付けて行きます。
七瀬さんは剣道の経験があるためか、着物の袷までは大丈夫なようですが、帯締めは無理そうですね。
まぁ、帯結びは時代を反映してか、完成品を付けるだけなので慣れた人間には簡単なのですが。
真琴とあゆさんには兵児帯。
ひらひらと動く帯が可愛らしいですね。
私はというと、祖母が着物が好きな人でしたから、浴衣の帯ぐらいは自分で締められます。
「うぐぅ、さすが美汐ちゃんだね」
「あぅー似合っている」
みなさん、誉めて下さるのは嬉しいのですが、着物は身体にメリハリが無い方が似合うと言われます。
「無い」と言われているようで、何だか寂しいです……
「天野ーっ、帯ーっ!」
隣の部屋から相沢さんの遠慮のない声。
相沢さんも浴衣を貸して頂くことになったのですが。
まさか、私に着付けを手伝わせる気ですか。
「恋人の浴衣の着付けを手伝う…… さすが天野さん、乙女の成せる技ねっ!」
七瀬さん、それは乙女を通り越して奥さ……
い、いえ、何でもありません。
……自爆してどうするんですか、私。
ともあれ、みんな揃ったところで庭先に移動。
ここは、倉田先輩に縁のあるお家で、庭先で花火観覧が楽しめる絶好の位置にあり、普段であれば、倉田先輩のお父様達がおつき合いも兼ねてお集まりになるそうなのですが。
今年は皆さん都合が付かず、お嬢様である倉田先輩だけがご挨拶に上がったというお話。
もったいないということで、倉田先輩の友人である私達がご招待を受けたのですが。
「あぅーっ、ゆーいちー」
「うぐぅ……」
真琴もあゆさんも、せっかくの浴衣姿を見せようと思っていたのに、相沢さんは家主さんにご挨拶をする倉田先輩のエスコートに駆り出されてしまいました。
同行する川澄先輩は、怜悧な表情もあって、敏腕秘書のよう。
それにしても相沢さん、先ほどから脂汗を流しながら無言の視線で『助けろ』コールをちらちらと投げかけるのはやはりあれですか?
倉田先輩の婚約者扱いでもされているんですか?
倉田先輩の見せる、照れたような、それでいて心底嬉しそうな笑顔に当てられて、強く否定できないでいるんですね。
とはいえ、こちらも、
「うぐぅ……」
縁側に腰掛けた私の隣で落ち込むあゆさん。
「あぅーっ」
ふてくされた様子で、私の膝の上に頭を乗せる真琴。
これでは、助けに行くこともできないのですが。
しかし、丁度良くアナウンスが流れ、花火大会が始まったのでした。
「たーまやー!」
この花火大会、一般への知名度はそう高くないのですが、実際にはもの凄く権威のある花火師さん達の競技会で。
その美しさ、スケールは他に無いものとなっています。
最近になって、NHK地上波でもダイジェストで放映したり、BSなどで中継をしたりとメディアに露出したお陰で全国でも知られるようになっては来ているのですが……
「あーまーのー」
ようやく倉田先輩の挨拶回りから開放されたのか、恨みがましい声を出しながら、私の隣にドカっ、と腰掛ける相沢さん。
「お疲れさまです。スイカ、頂いたのですが、いかがですか?」
すました顔を作ってスイカを差し出すと、相沢さん、がっくりとうなだれて。
「相沢さん? 要らないんですか?」
「……いる」
渡したスイカにかぶりつくと、ぽつりと漏らされます。
「甘いな」
「ええ、今年は暑かったですから」
甘みが増しているようですね。
夜の空に咲き誇る花火と、僅かに遅れて来る、ドーン、パラパラという音。
「後で、真琴やあゆさんの浴衣、誉めてやって下さいね」
「ああ、馬子にも衣装って言うしな」
スイカの種をプッと飛ばし、答えて下さる相沢さん。
本当に、この人は……
「でも天野も似合ってるぞ。さすがおば……」
「物腰が上品と言って下さい」
「むぅ、和服は……」
「『身体に凹凸が無い方が似合う』なんて、酷なことを言う気ですか」
「いや、それは…… まぁ、言うまでもなく『知っている』からな」
「知っているって…… な、何を言っているんですか!!」
発言に込められた意味を悟り、思わず自分の身体を隠すように抱きしめて。
顔、赤くなってないでしょうね。
台詞を先読みして封じてもこれですから、この人は……
「いや、でも本当、綺麗だぞ」
「……花火が、ですよね」
照れ隠しに、そう答えるしかない私なのでした。
To be continued
■ライナーノーツ
花火大会。
昔住んでいた秋田県の大曲全国花火競技大会がモデルです。
今年もBSで中継するようですね。
渋滞が凄いので勘弁ですが、もう一度ぐらいは生で見てみたいものです。
ブレーキのお話は、まぁ、こんな話もあると思って下さい。
でも本当に大切なのは日頃の整備。
そして、どんなブレーキを付けたとしても、タイヤのグリップ以上に止まることはないのですから、タイヤのコンディションですね。
何はともあれ、安全が一番です。