この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
始まりは、またしても相沢さんの一言から。
「天野ーっ、銭湯行くぞー」
はい?
美汐のスクーター日記
『菖蒲湯』
今日は5月5日、子供の日。
倉田先輩の誕生日でもあります。
地元の大学に進学した倉田先輩は、川澄先輩と一緒に部屋を借りて、家を出ました。
とは言え、そこはやはり名家のご令嬢。
借りた部屋は実家と目と鼻の先で、倉田先輩のフュージョンは、お屋敷のガレージに停めてあり、毎朝実家に顔を出してからフュージョンで通学するのが日常だとか。
ちなみに、お二人の借りたマンションには、『ゆういちさんのへや』があるという噂です。
相沢さんが大学に進学したら同居を考えているという話ですが、相沢さんご本人がどう考えているのかは不明です。
ともあれ、今日は相沢さんは、倉田先輩の誕生パーティーのため、お二人の住むマンションに行かれていたと思いましたが。
どこをどうすれば、真っ昼間から銭湯って事になるんですか?
「いや、佐祐理さん達が最近使っている銭湯で、菖蒲湯をするから行かないかって。天野はオバサンくさいから、そういうの好きだろ」
「オバサンくさいは余計です。でも、菖蒲湯ですか」
菖蒲湯(しょうぶゆ)とは、5月5日の端午の節句に、菖蒲の根や葉を入れて沸かす風呂のことです。
入浴することで邪気を払うとされ、菖蒲は「勝負」や「尚武」につながるとも言いますが、元来は薬草で、身体にいいとされています。
「分かりました、少し待って下さい」
「ん? 何か用事でもあったか?」
「あははーっ、祐一さん。女の子はお風呂一つ取っても、色々と準備が必要なんですよー」
そうですね。
備え付けの石鹸やシャンプーで済ましてしまう男性と違って、シャンプーやトリートメント等々、自分に合った物を用意しなければなりません。
「祐一は鈍感」
「あははーっ」
まぁ、私の場合は、以前、温泉にスクーターで行った事がありましたので、旅行用の小瓶に小分けした入浴セットがありますから。
それを持ち出せば良いのですが。
準備をしてJOGを出すと、家の前に停められたフュージョンのトランクを開けて、倉田先輩がお風呂セットを相沢さんに実際に見せて説明をしている所でした。
倉田先輩達は、通い慣れているのか、シャンプー等のボトルも通常サイズですね。
ゼンマイ仕掛けのアヒルまで入っているのは川澄先輩のシュミでしょうか?
まぁ、スクーターの場合、大きなトランクがあるため、収納に苦労しないのがいいですね。
「天野、準備はいいのか? 赤い手ぬぐいをマフラーにして、小さな石鹸をカタカタ言わす……」
「……私にどんなイメージを持っているんですか」
さすがに『神田川』は無いでしょう。
そんな事を言っていると、栞さんに二十四色のクレパスを買って、相沢さんの似顔絵を描いてもらいますよ。
「祐一、古過ぎ」
「あはは〜っ、そうですね、最近の銭湯はもっとおしゃれですよ。お風呂が故障した時に初めて行ったんですけど、ジャグジーや電気風呂があるし、何と言っても広い湯船が気に入っているんです」
まぁ、普通の家庭のお風呂では、足を伸ばして入るなんてなかなかできませんから、広い湯船のある銭湯が気持ちいいのは確かですね。
「それでは行きましょう」
私のJOG−ZR、相沢さんのグランドアクシス、そして倉田先輩と川澄先輩のフュージョンを連ねて、銭湯へと向かいます。
「天野さん、前から思っていたんですが、本当に色白でお肌がきれいですね」
銭湯で男女の脱衣所に分かれて服を脱ぐと、何だかため息混じりに倉田先輩から言われました。
「あの、そんなにまじまじと見つめられると、恥ずかしいんですけど」
「女の子同士ですから。あ、ブラも可愛いですね」
可愛いと言われるのは喜ぶべき事なのでしょうが、対象がデザインなのか、サイズなのか、複雑な所です。
大体、そう言う倉田先輩は見事なプロポーションの持ち主ですし、川澄先輩は、更にその上を行く方です。
と、私の視線に気付いたのか、倉田先輩が説明してくれました。
「あはは〜っ、舞のブラジャーはフランス製なんですよーっ。舞はプロポーションが日本人離れしてますから。綺麗な釣り鐘型のバストを収めるには、日本製のは向かなかったんです」
川澄先輩がブラのホックを外すと、きっちりと収められていた胸が、まろび出て。
本当、サイズがぴったり合った物を付けていても、かがんだり、身体をひねったりすると隙間ができたりする私とは、比べ物になりません。
そんなことを呟くと、倉田先輩は、笑顔で、
「何言ってるんですかー、スレンダーな女の子は、そういう所が『イイ』んじゃないですかー。ねぇ、祐一さん」
はい?
何だか、男湯の方から吹き出すような、慌てた声が聞こえてきました。
もしかして……
「ここって、男湯の方に声が……」
「はい? そうですね、仕切の壁は上が空いてますから」
……と言うことは、相沢さん、今の会話、聞いてたんですかっ!
「相沢さんっ!」
「なっ、違うぞっ! 勝手に聞こえただけで……」
うう…… 恥ずかしいです。
「こらー走るな! 湯船に飛び込むな! 湯船は掛湯をして、汗を流し、足を洗ってから入るんだ! あとうさ耳は外せ!」
……何事でしょうか?
男湯の方から、相沢さんの叫び声と、バシャバシャというけたたましい音が聞こえてくるのですが。
「……あの子達は小さいから、男湯に入れるから」
あの子、ですか?
「舞ーっ、こいつら、そっちで面倒見てくれ! って言うか、いくらちっちゃくても女湯に入るべきだろ!」
壁越しにかけられる相沢さんの声は悲鳴に近くて。
「祐一」
「何だ!」
「ガンバ」
「あのなぁ……」
川澄先輩の返事に、何だか、がっくりと肩を落としている相沢さんの姿が目に浮かびました。
「それにしても、最近の銭湯はおしゃれですね」
菖蒲の香りがする湯船に身体を伸ばしてゆっくりと浸かりながら呟きます。
電気風呂は何だか怖かったので敬遠しましたが、ジャグジーは気持ち良かったですし。
「そうですね。利用者が減ってきて、営業を止めるところも増えていると言いますから、こんな風に設備を充実してお客を集めないといけないんですね」
「燃料費も上がっているでしょうしね」
最近のガソリンの値段を思い浮かべると、ため息が出ます。
私も少しでも安く上げようとセルフスタンドを使うようになりました。
私の使っているのはプリペイドカード方式ですが、ガソリンスタンドって、同じ系列のお店でも、営業しているのはバラバラな小売り業者なため、別のお店では使えないんですよね。
「でも、ここは廃油ボイラーですから、燃料費はそんなにかかってないみたいですよ」
廃油を使ったボイラーですか?
「近所の自動車屋さんやバイク屋さん、ガソリンスタンドから、交換して捨てるだけになったオイルなんかをもらって焚いているんです。佐祐理のフュージョンで交換したエンジンオイルなんかも、燃やされているんじゃないでしょうか」
それは経済的ですね。
エンジンオイルの廃棄先としては、理想的ではないでしょうか。
ただ捨てるだけなんて、もったいないですからね。
「こら! びしょ濡れのまま出るな! 絞ったタオルで一通り身体を拭ってからにしろ!」
相沢さんの方は、相変わらず騒がしいですね。
川澄先輩はと言うと、涼しい顔をして、アヒルのおもちゃのゼンマイを巻いています。
「美汐、美汐」
「はい、何ですか先輩」
「ラッタッタ」
……ホンダのロードパルですか。
セルモーターの代わりにゼンマイを巻いて、エンジンを始動させたというバッテリーレスのスクーター。
あれはあれで経済的だと思いますが。
でも、私達が生まれる前のスクーターですよ。
相沢さんが聞いていたら、また、「オバサンくさい」なんて言われそうですね。
To be continued
■ライナーノーツ
佐祐理さん誕生日記念…… のつもりだったんですが、何だか若者置いてきぼりのネタが満載になってしまいましたね。
私は広い風呂が大好きで、銭湯はいいと思うのですが、時代の流れか、営業を止める所が多くなっているのが残念です。
みなさんも機会がありましたら、地元の銭湯を利用してみると、結構面白いと思いますよ。