この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
「相沢さん?」
窓の外から聞こえてくる、耳慣れたYAMAHA系スクーターのエンジン音。
レポート用紙から顔を上げ、部屋の時計に目を止めると、時刻はもう21:50を指していました。
こんな時間にどうしたのでしょう?
聞き違いかとも思いましたが、エンジン音はやはり私の家の前で止まっていて、程なく呼び鈴が鳴りました。
急いで玄関に向かい、鍵を開けようとすると……
「天野ーっ、ラーメン食いに行くぞーっ」
「はい?」
美汐のスクーター日記
『真夜中に抜け出して』
「はぁ…… 今何時だと思ってるんですか?」
思わずため息が出てしまいます。
「ん? 名雪じゃあるまいし、まだまだ宵の口だろ」
「そういうことではなく、一人暮らしの女性の家に深夜押し掛けた上、ラーメンを食べに誘うという神経をですね……」
言っていて、尻窄みになる私の声。
「……この手のことへの配慮を、相沢さんに求める方が酷なのですね」
「おうっ、理解が早くて助かるぞ」
「何でそんなに偉そうなんですか……」
全く、この人は……
「いや、今日は早めに夕飯を食ったんだが、勉強してたら小腹が空いてきてな。秋子さんに頼むのも悪いし」
「………」
「何だ、その顔は」
「いえ、今勉強と仰いましたか?」
「あ〜ま〜の〜?」
猫なで声に、ぞくりと悪寒が走ります。
思わず後ずさると、相沢さん、苦笑して。
「……いや、そんな風に怯えた目で身構えられると、かえって妙な気分になるんだが」
「何を言っているんですかっ!!」
……顔、赤くなってないですよね。
「はぁ、もういいですから待っていて下さい。今着替えて来ますから」
「天野ー」
「何ですか?」
スリッパをぱたぱた言わせながら奥に引っ込む私に。
「ピンクのパジャマとカーディガン、似合ってるぞ」
「っ!?」
本当に、この人は……
とにかく着替えて、ZRのエンジンに火を入れます。
深夜の住宅地でのアイドリングは迷惑ですから最小限に止め、ゆっくり走りながら暖機して。
2ストエンジンの場合、アイドリングのままの暖機ではプラグが汚れやすいそうですから、こうするのがエンジンにとっても一番良いのでしょう。
タイヤも一緒に暖められますし。
そうして、相沢さんのアクシスのテールランプを追いかけながら……
不思議な感慨に捕らわれます。
いえ、深夜の走行など、仕事で何度も経験があります。
ただ、その場合は、当たり前ですけどいつもZRと私だけで。
こんな風に相沢さんのお夜食につき合って、ラーメンを食べに出かける日が来るなどとは思いも寄りませんでした。
「そこですか……?」
相沢さんのアクシスが、ウィンカーを点けて入って行ったのは、博多ラーメンのお店。
私も続いて乗り入れたのですが、ヘルメットを取ったとたん、濃厚なスープの匂いが鼻につきました。
何と言いますか、独特の匂いで。
お店の外まで漂っています。
「凄いだろ」
相沢さんも笑っています。
確かに。
このままここに停めて置いたら、ZRにもラーメンの匂いが染みついてしまいそうです。
昔ながらの、ずいぶんと段差がある入り口……
雪が積もったときのためのものですね。
開けると熱気とスープの香りが私達を迎えました。
真ん中の厨房をぐるりと囲むカウンター席があるだけのお店。
ご主人が、直にお客の相手をしています。
「さて、天野は何にする?」
出されたお冷やはよく冷えていて。
厨房から漂う蒸気のせいで、すぐにコップの表面に汗が浮き出ます。
それを一口、口に運んでから伺います。
「相沢さんは何にされるんですか?」
「俺か? 俺はやっぱり、塩でハリガネだな。あと、明太子ライス」
「はりがね、ですか?」
「麺の茹で具合だ。元々、博多ラーメンは麺が細いからな。普通堅めに茹で上げるんだ」
頭上のメニューを指さして、教えて下さいます。
なるほど、標準でもバリカタ、それ以上固いものがハリガネとされています。
「このスープの匂いといい、何だか本格的ですね」
「ああ、本式の博多ラーメンらしいぞ。チェーン店とかそういうのじゃないみたいだし」
言われてみると、花笠を題材にした民芸品などが店内に飾ってあります。
「それでは、私も塩で」
とりあえず、麺は普通のバリカタというやつでお願いします。
他にも玉子とかトッピングを追加できるようでしたが、あまり夜中にたくさん食べたくありませんし。
まぁ、独特の匂いに食欲をそそられるのですが……
「それにしても相沢さん、何故ラーメンなんです?」
「いや、急に食いたくなってな。天野にもあるだろ、そういうの」
「……そうですね。私の場合は自炊ですから、食べたくなったら、夕食に自分で作りますが」
「知り合いの話だが、ツーリング中、山奥でキャンプしてて、急にビールが飲みたくなったからって、バイクを飛ばして2時間かけて買ってきたとか」
「そういうのでしたら、モスバーガーを食べたくなって、それだけのために峠、トンネルを越えて片道40分を往復される方のお話も聞きましたね」
「まぁ、二輪ってのは、気軽にそういうことができるからなー。特にスクーターはマフラー替えない限り静かだから、夜出かける時も、あんまり近所を気にしないで済むし」
「だからと言って、夜中に簡単に誘われても困るのですが……」
そんなことを話し合っている内に、ラーメンが出てきました。
「……本当、独特ですね」
真っ白な豚骨白濁スープは濃厚な香りを放っていて、麺は極細。
なるほど、こんなに細くては、堅めに茹でないといけませんね。
ハリガネとは言い得て妙です。
「……美味しいです」
普通のラーメンとは別の食べ物なのでは、という歯ごたえと風味。
こってりしているはずなのに、くどくないスープは、何か秘密があるのでしょうか?
麺も腰があって……
「ラーメンというと、寒い地方の食べ物というイメージがあるのですが……」
「ん? 博多は別に南国って感じじゃないぞ。雪だって普通に降るし」
「そうなんですか?」
「ここのように積もるほどじゃないけどな。前にツーリングに行ったとき……」
相沢さんのツーリング話を伺いながらいただく博多ラーメン。
何だか、心と身体を暖めてくれるようで……
「やっと見つけた……」
はい?
「真琴だけ仲間はずれにするなんて、許さないんだからーっ!!」
「ま、真琴っ!?」
入り口の方を振り向くと、ここまで走って来たのでしょうか、頬を真っ赤にした真琴の姿がありました。
「美汐と二人だけで美味しそうなもの食べるなんてずるいっ! 真琴も食べるっ!」
「……って、お前、もう寝てたはずだろ! だいたいどうやってここまで来たっ!?(大汗)」
「だって、ぴろが祐一の部屋で寝たいって言うから祐一の部屋に行ったら、祐一が居なくて……」
相変わらず夜中に相沢さんの部屋に行くの、止めていないのですね……
まぁ、私が泊まりに行くと私と一緒に寝たがりますし、この間は秋子さんと一緒に寝ていたそうですし。
人のぬくもりに触れていたいっていう……
ただそれだけなのでしょうけど。
それにしても、よくここを突き止めたものです。
やはり野生のカンですか?
それだけ、相沢さんと深い繋がりを持っているということなのでしょうね。
「そんなのいいから、真琴も食べるっ!」
「おい、それは俺の食いかけ……」
「祐一は、ご飯もあるでしょーっ」
「お前なぁ……」
「あぅー、ほとんど残ってない……」
「はぁ……」
ため息一つついて、相沢さん。
お店のご主人に向かって、
「替え玉一つ追加、お願いします」
替え玉?
「博多ラーメンは、麺だけお代わりできるんだよ」
なるほど、メニューにも書いてあります。
だからと言って、それで二人分をまかなうのも図々しいと思うのですが、ご主人は笑って応じて下さって。
麺に、ネギもサービスで追加していただきました。
「あ、ついでに玉子、追加でつけてやって下さい」
これぐらいは、私も持ってあげないといけないんでしょうね。
「ありがとう美汐っ!」
「どういたしまして。でも、相沢さんにもちゃんとお礼を言わないといけませんよ」
「あぅ……」
ここで何か言うと、あまのじゃくな反応しか返ってこないことが分かり切っている相沢さん。
黙って真琴の言葉を待ちます。
「あぅ、そ、その…… ありがと」
「ああ、どういたしまして、だぞ」
「あぅー」
真っ赤になって、うつむく真琴。
その様子が何とも可愛らしくて。
相沢さんと二人、声を殺してこっそりと笑い合うのでした。
To be continued
■ライナーノーツ
いかん、博多ラーメンが食べたくなった……