海洋資源調査船「なでしこ」

〜決戦、なでしこVS原子力潜水艦〜(後編)


S−31 なでしこ マスト上 監視台

「くしゅっ!」
「大丈夫ですか、テンカワさん」

 タオルを片手にルリが上がって来る。

「早くこれで拭いて下さい。顔、蒼いですよ」
「あ、ありがとう、ルリちゃん」

 ルリからタオルを受け取るアキト。
 頭から波を被った上、風に吹きさらされたため、本当に顔色が悪い。
 そのくせ、無線には平気そうな声で答えるのだから、この人は……
 こみ上げて来る何かをこらえながら、ルリは言う。

「……テンカワさん、カイロ貸しましょうか?」
「えっ?」

 何を言ってるのか分からない、という顔をしているアキトの前で、ルリは自分自身を指差して見せた。

「ルリちゃん?」
「はい」
「ででで、でも……」
「意地を張っている場合じゃないと思います。このままじゃテンカワさん、風邪ひいちゃいます」
「いや、しかし……」
「私の方も、こんな所で風に吹きさらされるよりも、テンカワさんの腕の中の方が暖かいと思いますし」

 そう言って、ぶるっ、と身体を震わせる。

「ルリちゃん……」

 アキトはルリの身体を抱き寄せる。
 最初は壊れ物を扱うように、そして次第に力を込めて。

「暖かい……」

 唇から吐息が漏れた。



S−32 デルタIV級 発令所

「スクリュー音、ゆっくりと遠ざかって行きます。右舷20度、距離3000」
「よーし、進路変更。魚雷発射管、一番、二番用意」

 これで決まりだ。
 イワノフは確信した。
 魚雷発射管に注水され、扉が開く。

「悪夢もこれで終わりだ。海の藻屑と化せ」



S−33 なでしこ マスト上 監視台

「ルリちゃん?」
「えっ、あっ、はい」

 珍しく慌てた様子の返事。
 アキトのコートの前から、首だけ外に出しているルリ。
 その身体は、後ろからそっと、アキトに抱きすくめられている。

「どうしたの、ルリちゃん」
「いえ、ちょっとぼうっとしちゃって。……こんなに人のぬくもりが心地よいものだとは知りませんでした」
「……そっか」

 アキトの返事はそれだけ。
 だが、その素っ気ない言葉の中に、暖かな響きが込められていて、それがルリの耳に優しく届く。
 ふと、くん、と鼻を鳴らすルリ。
 それでアキトも気付く。

「? この匂い」

 ルリは無言で前方を指し示した。
 海面が変色している。

「海底噴気です。見た所、水温はかなり高そうです。音波は変温面で反射される…… 船長は、相手側の失探を狙っているんですね」
「ふぅん? ……対流してるのかな? 潮の流れが速いや」


S−34 デルタIV級 発令所

「魚雷発射ぁ!!」



S−35 なでしこ マスト上 監視台

「魚雷! 後ろだっ!!」


S−36 なでしこ ブリッジ

「ミナトさん、両舷全速、急いで下さい!」

 ユリカの指示が飛ぶ。

「船長、前には海底噴気が!」
「構いません。一気に突っ込んじゃって下さい」

 そして無線に叫ぶ。

「アキト、ルリちゃん、何かにつかまって!」

 海水が濁ってきた。
 海底噴気が活性化している証拠だ。

『魚雷来るぞ! あと500メートル!』



S−37 なでしこ マスト上 監視台

 噴気の直上に突っ込んだなでしこの船体に、ゴンゴンと衝撃が走る。
 噴気によって巻き上げられた岩や石が、船体に当たっているのだ。

「来る!」

 魚雷が真っ直ぐこちらに向かって来る。

「!!!」

 だが、魚雷はなでしこに達する前に、突然爆発した。
 巨大な水柱が立ち、爆発の衝撃が、一瞬なでしこの船尾を浮かす。
 たまらず、アキトとルリの身体が浮いた。

「!」

 手摺りをつかんでいたルリの手が、すっぽ抜けた。
 慌ててアキトの腕に取りすがる。

「〜っ!」

 そこでほっとしたのがまずかったのか……
 二発目の爆発が、ルリの身体を宙に弾き飛ばした。
 監視台の手摺りの外に。
 恐怖で、ルリの心臓が止まりそうになる。
 何か、つかむ物……
 パシィ!
 間一髪、手をつかまえられた。

「テンカワさん!!」



S−38 なでしこ ブリッジ

 想像を超えた衝撃に、ある者は壁に叩き付けられ、またある者は床に投げ出される。

「回頭です! 進路反転180度!!」

 何とか転倒をまぬがれたユリカは叫ぶ。

「回頭が済み次第、エンジンストップして下さい。勝負に出ます!」



S−39 なでしこ マスト上 監視台

 ルリの身体は、アキトの右腕一本で支えられていた。
 息を飲む、ルリ。
 アキトは監視台の端に、片手でぶら下がっていたのだ。

「テンカワさん、手を……手を離して下さい!」
「嫌だ……」
「どうして……どうして他人の為にそこまでするんです! つまらない意地や見栄なら止めて下さい。テンカワさんが死んじゃったら、どうしようもないじゃないですか!」
「………」
「どうして……」

 初めて、ルリの声に…… 泣き声が混じる。

「どうして、私なんかに優しくするんです……」

 それは、心の奥底で、ずっと感じていたこと。
 どうしてこの人は私から離れて行かないんだろう。
 どんなにこの人が優しくしてくれても、私は微笑みを返すことすらできない。
 感情の籠もらない顔で、言葉で、型通りの礼を言うだけ。
 こんな自分には、この人に優しくしてもらう資格なんて、無い。

「もう嫌なんだ……」
「え?」
「俺に力が無いばっかりに、女の子一人、助けられないなんて」

 苦しい息の下、アキトは言う。
 彼の言葉は、ルリと、そしてルリの知らない彼自身の過去に向けられていた。

「だから、こんなこと言う資格は俺には無いのかも知れないけど」

 資格……

「俺を、信じて欲しい。そうしたら俺も、もう一度、頑張れるから」

 初めてルリは気付いた。
 アキトの優しさの影にある悲しみ、そしてそれを乗り越えようとする強さを。
 信じて…… もう一度……
 私にも、そうする資格が、あるのだろうか?
 声を…… 勇気を絞り出す。

「………はい」

 私は、信じたい。
 テンカワさんを…… そして自分を。

「ありがとう、ルリちゃん」

 こんな状況でも、アキトはルリに微笑んでくれる。

「テンカワさん……」
「ルリちゃん、俺の足にしがみつくんだ」
「はっ、はい」

 流石に切羽詰まった様子のアキトの声に、ルリは急いで彼の右足にしがみつく。
 アキトはそれで自由になった両手で監視台の端に取り付いた。
 けんすいの要領で、身体を持ち上げる。

「ぐうっ」

 顎まで上げ、ぱっと左手を手摺りに伸ばし、何とかつかむ。
 次いで右手。
 左足を監視台にかけ、完全に身体を引き上げる。

「よし、ルリちゃん」

 ルリの身体を持ち上げるアキト。
 そして、アキトとルリは、なだれ込むように監視台の上に転がった。
 大の字になって荒い息をつくアキトの胸の上で、ルリは大きく息をついた。
 気抜けしてしまい、身体が全く動かない。
 アキトの胸から、力強い心臓の鼓動が伝わってくる。
 優しくて、ちょっと頼りなげで、逞しさとは無縁だと思っていたアキトの胸が、こんなに厚く、広い事に、ルリは驚きと…… 安らぎを感じていた。
 もう少し、こうしていたい。

「テンカワ…… さん……」



S−40 デルタIV級 発令所

 魚雷の爆発は、意外なほどの大きさで水中を伝わり、船体を震わせた。

「やったか……」

 イワノフは、大きく息をついた。
 しかし、完全に気が晴れたわけでは無かった。
 これだけ艦が傷ついては、責任問題は免れられない。

「艦の損害チェックを行え。可能な限り、修復に勤めるように」

 そう指示を出し、後を副官に任せて発令所を出ようとする。
 しかし、ソナー係が首を捻っていることに気が付き、足が止まった。

「どうした?」
「それが……艦体破壊音も、沈没音も聞き取れないんです」

 実直そうな若いソナー手は、困惑した表情で言った。

「もちろん、あの方向には海底噴気がありますから、音をマスクしてしまった可能性もありますが……」
「うむ、海底噴気か……」

 ……まさか、な。
 ありえん事だ。
 そう思い込もうとするが、上手く行かなかった。

「浮上だ副長」

 長い逡巡の後、イワノフは言った。

「艦長?」
「撃沈を確認できなくてはな。寝覚めが悪い」



S−41 なでしこ ブリッジ

「船長、指示通りに準備しましたが、あんな物、一体何に使うんです?」

 困惑した表情のメグミに、ユリカは苦い笑みを浮かべた。

「できれば使いたくは無いんだけどね…… さっきの魚雷の爆発で、沈んだと思い込んでくれれば」

 そう答えて、通信器をとる。

「アキト?」
『何だ?』
「ルリちゃんと一緒に、前の方の海を見張っててくれる? 潜望鏡はとても小さいけど、アキト達の目だけが頼りなの」
『了解だ』

 無線を切って、ユリカ。

「いいですか、絶対に音を立てないで下さい。ここが最後の正念場です」



S−42 なでしこ マスト上 監視台

「正念場だな……」

 アキトが呟いたのは、奇しくもユリカと同じ言葉だった。

「大丈夫だと思います?」

 ルリも真剣な面もちで海面上に目を凝らしながら訪ねる。

「そうだな…… ルリちゃんなら、どっちに賭ける? 助かるか、助からないか」

 アキトは軽い調子で反対に訪ねた。
 この期に及んでこんな軽口が叩けるとは……
 ルリは呆れながらも返事を返す。

「その仮定は無意味です。助からない方に賭けたって、死んじゃったらどうしようも……」

 言いかけて、ルリは気付く。
 自分で自分の問いに答えていることに。

「そういう事ですか」
「うん、そういうこと」

 いつでも一生懸命で、前を見続ける、そんなアキトの思考の一端が理解できたような気がして…… ルリは少し嬉しかった。



S−43 デルタIV級

 デルタIV級は、ゆっくりと警戒浮上する。
 もっとも、片方のプロペラがやられ、速度が上げられないため、仮に急速浮上をかけたとしても、そんなに変わりはしなかっただろうが。
 海面まで、あと50メートル。



S−44 なでしこ ブリッジ

 ユリカは、彫像のように立ち尽くしたまま、前方の海上を見つめていた。
 瞳を見開いた様な、真っ直ぐな視線は常と変わりがない。



S−45 デルタIV級 発令所
 イワノフは潜望鏡に片手をかけ、無言でその時を待っていた。



S−46 なでしこ マスト上 監視台

「居たっ!!」

 アキトは無線に向かって叫ぶ。

「真正面だ!!」



S−47 なでしこ ブリッジ

「エンジン始動、全速前進! 船尾、投入を開始して下さい! 急いで!」

 ユリカの指示が下るや、間髪を入れずエンジンが咆哮を上げた。

「行きます! これが最後の勝負です!!」



S−48 デルタIV級 発令所

「何故だ、何故生きている! あの魚雷をどうやってかわした!」

 イワノフは我が目を疑った。
 潜望鏡は、なでしこの姿を、大きく捉えていた。

「艦長! 前方に機関音! 距離1800!!」

 ソナー手が叫ぶ。
 その報告に副官は驚愕の声を上げた。

「いつの間に! どうやって忍び寄ったんだ!」
「潮流は我が艦に向け4ノット。魚雷の爆発音と、海底噴気の雑音に紛れて回頭、エンジンを切って無音航行しやがったんだ」

 イワノフは呻いた。

「海底噴気……」

 不意に気付く。

「そうか、噴気の巻き上げた土砂が、魚雷のソナーを狂わせたんだ! 奴め、それが狙いで……」
「エンジン音、こちらに向かって来ます!」
「急速潜行だ!」

 イワノフは直ちに命じた。
 この距離なら潜ってかわせるはずだ。

「なるほど、見事な操艦だ。だが突入して来た所で、こちらは下にかわせるんだ。それがわからんでもあるまい? どうやら策も尽きた様だな」



S−49 なでしこ ブリッジ

『潜望鏡が引っ込んだ! 潜って逃げるつもりだ!』

 無線越しにアキトが叫ぶ。

「急いで下さい! 相手を逃がさないで! 逃がしたらお終いです!!」

 指示を出すユリカの声も張りつめている。
 なでしこは全速で航行していたが、それでも乗員の誰もがもどかしい苛立ちを感じていた。
 一秒一秒が酷く長く感じられ、全身にじっとりと汗をかく。
 どれだけ経ったのか、ユリカの声が、その時を告げた。

「全員ショックに備えて! 計算ではそろそろ相手が下を通ります!!」



S−50 デルタIV級 発令所

「スクリュー音接近!」

 ソナー手がそう報告してきたが、なでしこのスクリュー音は、既にソナー無しでも聞くことができた。
 一際大きくなった音が、急に小さくなる。
 ドップラー効果だ。

「後ろに抜けました」

 全員が安堵の息をもらす。
 そのとたん、がくん、と船体に大きな衝撃が走った。
 車が急停止する時の様なショックに、乗員らは進行方向に投げ出される。

「なっ、何事だ!」

 イワノフは辛うじて身体を支えることに成功していた。

「司令塔に、何か、ワイヤーの様な物が引っかかった様です! 後方に引きずられます!」
「ワイヤーだと!?」

 イワノフの顔が赤く染まった。

「底引き網だ! 最初からこれが目的で突入して来たのか! こちらが潜ってかわすことまで計算に入れて……」

 ぎりっと、奥歯を噛みしめる。

「化け物め! 深海に引きずり込んでやる! ダウントリム一杯! 船速最大!」



S−51 なでしこ ブリッジ

 ガツン、というショックが船体に走り、速度が急激に落ちる。

「かかった!」

 ユリカはつんのめった身体を支えながら、会心の笑みを浮かべた。

「行きます! 相手を水上に引きずり出しちゃいましょう! 船速最大!」



S−52 デルタIV級 発令所

 ギッ、ギッ
 不気味な軋みが発令所の上からする。
 どうやら底引き網のワイヤーは、しっかりと司令塔をからめ取っているらしい。

「艦長、ワイヤーで引かれているせいで、ダウントリムが取れません!」
「前部バラストタンク全注水。後部バラストタンク排水。何としても、奴を海中に引きずり込んでやる!」

 デルタIV級は、バラストタンクを調整することで前部を重くし、無理矢理ダウントリムをかけ、前傾姿勢をとる。



S−53 なでしこ

 この力勝負、なでしこの方が不利だった。

「無理矢理ダウントリムをとった? 漁網が引っかかっているなら、マストや潜舵が傷つくのに、お構いなしですか」

 ルリは振り落とされないように、アキトにしがみつきながら呟いた。
 二度と離さぬよう、アキトの腕がそれに応える。
 ぐらり、と船体が揺らいだ。
 船尾が沈み込み、反対に船首が持ち上がる。

「後部下甲板冠水! ブリッジ、船尾が落ちかけてるぞ!」
「ワイヤーを送り出せ!」
「浸水します!」
「扉を閉めるんだ! 排水ポンプを回せ!」

 切迫した声が、船内に響き渡る。

「機関室、もっと出力は上がりませんか?」

 ユリカの声にも、流石に焦りの色があった。

「これ以上は無理です!」

 船が大きく揺れた。
 ミナトが悲鳴を上げる。

「船長! 船首の喫水が浅すぎて……船が振られます!」



S−54 デルタIV級

「いいぞ、このまま引きずり込んでやれ!」

 イワノフは、何かにとりつかれたかの様に叫んだ。
 口から押さえきれぬ低い笑い声が漏れる。
 これまで散々に苦汁を飲ませられてきた相手を、今正に仕留めんとしているのだ。
 彼だけではなかった。
 この艦の全ての乗員が、今や彼と同じ興奮状態にあった。
 底引き網がからまった司令塔から聞こえる、軋みの音に気付かぬほどに。



S−55 なでしこ

「後部排水、間に合いません!」
「ワイヤーもうありません、いっぱいです!」
「船長、もうこれ以上保ちませんよ!」

 ユリカはきっと前方を見据えたまま、身じろぎもしない。

「船長!」
「底引き網を切り離して下さい!」

 決断を下すユリカ。

「全員ショックに備えて! 反動が来ます!」



S−56 デルタIV級

 デルタIV級は、突然に拘束から開放された。
 だがそれは、同時にバランスの崩壊でもあった。
 漁網が伝える、なでしこの力に対抗するために、前部タンクに注水していたのだ。
 なでしこが網を放棄した以上、艦は危険なまでの角度で前傾、倒立することとなった。
 そして、開放された力が、艦を後押しする。
 下に向け、まっしぐらに。
 艦内は一気に大混乱に陥った。
 身体を支える術を持たぬ者は、残らず前へとなだれ込み、壁に叩き付けられる。
 辛うじてそれを避けたイワノフは叫んだ。

「トリムを回復させろ! 急げ!」
「かっ、艦長! 前部潜舵、反応有りません! 今の引き合いで破損した物と思われます!」
「何だと!?」
「艦長、海底です! 100ありません!」

 ソナー手が絶叫した。
 そうだ、ここは海底火山の隆起のため、水深は200前後しか無かったのだ。

「バラストタンク排水! 減速しろ!」
「排水間に合いません!」
「沈降が続きます!」

 悲鳴にも似た報告が、あちこちから返ってくる。

「おのれ、奴の狙いはこれだったのか! ここまで計算して……」

 グワッ!
 凄まじい衝撃が、船体に走った。
 艦の構造体が悲鳴を上げ、きしむ。
 海底火山の堆積物が厚い層を作っていたのが幸いし、辛うじて耐圧潜殻だけは大破を免れたものの、デルタIV級は潜水艦としての機能を完全に失い、ただの鉄の塊となって海底へと転がった。



S−57 なでしこ

「終わった……」

 大きく息をついて、椅子に座り込むユリカ。
 よく生きていたものだ。
 まるで他人事のような感想を抱く。
 上空を、救難機が飛んでいた。

「今頃…… 来るのが遅いんだよ」

 アキトは監視台の上に座り込んでそれを見上げる。

「生きてるんですね……」

 アキトの胸に背中を預け、ルリはしみじみと呟いた。



S−58 エピローグ

 こんばんわ、星野ルリです。
 私は今、ちょっと不機嫌です。
 というのも、船長…… ユリカさんが、私の話を聞いて、自分もテンカワさんのオムレツを食べたいと言い出したからです。
 最初は渋っていたテンカワさんでしたが、結局、強引なユリカさんに押し切られてしまいました。
 こんな事なら、言わないでおけば良かった……
 後悔先に立たずってやつです。
 でも、それだけ嬉しかったんです。
 ケチャップで『るり』と書かれたオムレツが。
 そして悲しかった。
 あのオムレツが、私だけの物じゃなくなることが。

「お待たせ〜」

 テンカワさんが、オムレツを運んで来ました。

「わぁ〜おいしそう!」

 ユリカさん、本当に嬉しそう。
 私もこんなに素直に振る舞うことができたら、そう思います。

「あ……」

 思わず、声が出ます。
 ユリカさんのオムレツ、ケチャップがかかっています。
 でも、それだけです。
 私の時みたいに名前が書いてない。

「テンカワさん……」

 テンカワさんは、分かってるよ、とでも言うように微笑むと、ポンポン、と私の頭を撫でてくれました。
 お見通し、でしたか。
 恥ずかしいけれど、何だかとってもいい気分です。

「おいし〜っ、アキト、おいしいよ。アキトが私のために作ってくれたオムレツ」

 何も知らないユリカさんが、言います。
 私は可笑しくって、笑ってしまいました。
 食べるのに夢中になっているユリカさんに聞こえない様、そっとテンカワさんに言います。

「また、私が食事に来るのが遅れたら、あのオムレツ作ってくれます?」と。

 でも、テンカワさんは困った顔をして言いました。

「ダメだよ…… って、ああ、そんな顔しないで」

 私、いつもの無表情ですよ?
 それなのにテンカワさんには分かるんですか?

「ダメって言うのは、食事に遅れたりするのが、ってこと。ルリちゃんが食べたいなら、俺が非番の時に、いくらでも作ってあげるから」

「テンカワさん……」

 あ……
 今…… 微笑みを浮かべることができたような気がします。

「ありがとう、アキト……さん」

 言い表せないほどの感謝と、この私の想いを込めて……







■ライナーノーツ

 今回、更新するにあたり潜水艦について現代に合うよう改定したため、改めてその辺を勉強し直しました。

 まぁ、自衛隊に比べればロシアの原潜は更新スピードが遅くて助かったんですけどね。

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