海洋資源調査船「なでしこ」

〜決戦、なでしこVS原子力潜水艦〜(前編)


S−0 プロローグ

 海の中で、二匹の鯨が戦っていた。
 黒い鋼の身体を持つ巨鯨達は、深く静かに息を潜め、全神経を傾けてお互いを探り合う。
 そこは深海。
 太陽の光も届かぬ、月よりも遠い世界……


S−1 ロシア デルタIV級弾道ミサイル原潜(SLBN)

「敵潜スクリュー音、消失しました」

 ソナー手の報告に、イワノフは小さく一つ舌打ちをした。

「気を付けろ。耳を澄ましてこちらをうかがっているぞ。最微速、絶対に音を立てるな」
「音紋解析出ました。日本のそうりゅう型です」

 イワノフは再び舌打ちをする。ヤポンスキーの潜水艦は、乗員共々非常に優秀だった。
 無論、専守防衛の立場にある自衛隊には、魚雷を撃つことなど出来はしないだろうが、動く核ミサイルサイロたる、この艦の動きが知られるのはまずい。
 所在が分からないからこそ、弾道ミサイル原潜は、核抑止力として大きな力を持つのだ。
 こちらのパトロールコースを推測させる様な情報を与えるわけにはいかない。
 どうする?
 隠れられそうな変温層は無かった。
 いや、一つだけ……

「進路修正、左40度」
「艦長?」

 副官はいぶかしげにイワノフを見た。

「イワノフ艦長、そちらに向かった場合、日本の領海内に入ってしまいますが? それに、海底火山の隆起が……」

 浅瀬に上がっては、艦の行動範囲が狭められる。
 自らの首を絞めるような物だった。
 だが、イワノフは意味ありげにニヤリと笑った。

「あそこには、海底噴気がある。水温は10度近く高いはずだし、噴気の音で多少はこちらの音を隠せる。まくぞ」



S−2 そうりゅう型6番艦 こくりゅうの航海日誌より

 ロシア、デルタ級らしき潜水艦を捕捉。
 しかし、AM7:36に起こった海底地震の為、近海の海底火山が活性化。
 追跡を断念する。


S−3 日本水産資源開発公団所属 海洋資源調査船なでしこ 食堂

 星野ルリが遅い朝食を摂りに来た時には既に食堂に人影は無く、厨房でコック見習いの天河アキトが洗い物を片づけているだけであった。

「あれ、ルリちゃん、どうしたの?」

 ルリに気付いたアキトが、屈託のない笑顔を向けてくる。
 それに対し、ルリはいつもながらの無表情。
 しかし、それが感情表現が不慣れなゆえ、表情の選択に困った末の無表情だと了解しているアキトは、笑顔を崩さない。

「おはようございます、テンカワさん」
「えっ、ああ、おはよう……ってルリちゃん、もしかして朝めし食べに来たの?」
「はい、でも……」

 一応、時間内には来たのだが、終了10分前というのはギリギリ過ぎた様だ。

「ごめん、今朝はもう全部出ちゃって……」
「そうですか」

 特に残念そうな様子も見せずに背を向けようとするルリを、アキトは慌てて呼び止める。

「あ、ちょっと待ってて、今何か作るから」
「でも……」
「気にすることはないよ、食事が出せないのはこっちの落ち度なんだから」
「そうですか……」

 カウンター席に座り、厨房のアキトの様子をうかがうルリ。

「ルリちゃん、オムレツでいいかな?」
「はい」

 小さなフライパンを暖めつつ、ボウルに卵を溶き、余り物のハムを刻むアキト。

「今日はどうしたの、ルリちゃん。こんなに遅く?」

 手を動かしながらアキトが訪ねる。

「はい、オモイカネの調整で、昨日、遅かったもので」

 オモイカネ、とはこの船に積まれたスーパーコンピュータの名称だ。
 ルリは米国のシンクタンクで英才教育を受けた才女で、11歳というこの歳でオモイカネのオペレーターを勤めている。

「あんまり無理しちゃだめだよ」

 アキトの表情が曇る。
 ルリは、アキトのこの顔が苦手だった。
 自分が、ひどくいけないことをしたように感じてしまうから。
 反射的に、答えが口から零れる。

「でも、お仕事ですから」

 そう答えてしまうのは何故だろう。
 アキトを困らせたくなどないのに。
 ただ一言、素直に「はい」と言うだけでいいのに。
 案の定、アキトは困ったように顔をしかめ……しかし、すぐに仕方がないなぁ、とでも言いたげに苦笑する。

「ルリちゃん、ケチャップかける?」
「はい……」

 そして……
 カリカリに焼けたトーストやら、カフェオレやらと共に、ケチャップで『るり』と書かれたアキト特製オムレツがルリの前に出されたのだった。

「!!……て、テンカワさん!!?」

 今度こそ、ルリの鉄面皮にヒビが入った。
 顔が赤く染まって行くのが、自分で分かるほどだ。

「テンカワさん……」

 私、子供じゃないんですから、と怒ろうとするが、できなかった。
 私の名前が書かれてる……
 テンカワさんが、私の為に、私だけの為に、作ってくれたオムレツ。
 私だけの為に!?

「さぁ、食べてみてよ」

 ルリの内面の葛藤に気付いているのかいないのか、アキトは変わらぬ笑顔で勧める。

「はい……」

 ドキドキしながらオムレツをひと匙、口に運び……そしてルリは目を丸くすることになる。

「ルリちゃん?」

 動きの止まったルリを、いぶかしげに見るアキト。

「違う……」
「えっ?」
「私の知ってるオムレツと、違う」

 アキトのオムレツは本当に甘くて、口の中で溶けるようにふわふわで……とても、とてもおいしかった。
 ルリが施設にいた頃に食べたオムレツは、もっと硬くて、味も違っていて、アキトのものとは似ても似つかぬ代物だったのだが。
 なんだか、食べるのがもったいない……



S−4 デルタIV級 発令所

「どうした、ソナーはまだ直らんのか?」

 イワノフはマイクを握り、苛立った調子で言った。
 どんなに怒っていても、大声を出せないのが潜水艦である。
 それがまた彼を一層苛立たせる。

「全く、あの忌々しい海底地震さえ無ければ」

 他の者に聞こえぬよう、小声で呟く。
 突然活性化した海底噴気に巻き込まれ、艦首を海底にぶつけてしまったのだ。
 幸い、耐圧船殻は無事で、浸水こそ無かったものの、ソナーが手酷くやられていた。
 海底噴気が激しくなっている事もあって、ほとんど盲目状態である。
 事故から2時間。
 技術士官はとうとう諦め、恐る恐るイワノフに報告した。
 曰く、浮上しての船外作業が必要だと。
 おそらく、追尾していたそうりゅう型はもう去っているだろう。
 イワノフはため息混じりに、浮上を命じた。



S−5 なでしこ ブリッジ

 この『なでしこ』は、元々ネルガル重工の建造した大型の遠洋漁業船であった。
 それが、この所の漁業不振により注文主が倒産。
 慌てたネルガル重工は、日本政府に対するコネを利用して、「なでしこ」を海洋資源調査船として日本水産資源開発公団に売り込んだ……という経緯があり、ルリに限らず乗員のほとんどがネルガルの関係者もしくはネルガルが直接スカウトした者であった。
 中でも船長である御統ユリカは、防衛大在学時、歴代トップの成績を持ちながら、海上自衛隊への任官を拒否、そこをネルガルにスカウトされたという変わった経歴の持ち主である。

「あれ、何でしょう?」

 前方の海を見つめ、ユリカは声を上げた。
 遠くの海上に、小さな染みができていた。
 海の色がそこだけ違っているのだ。

「海底噴気ね」

 海図を確認しながら、遥ミナト航海士が答える。

「いつもより活性化してるみたい。観測船が出てるわ」

 確かに、その近くには停船している観測船の姿があった。

「大したこと無いとは思いますが……メグちゃん、観測船に様子を問い合わせてみて下さい。なでしこ減速です」

 なでしこは、5ノットまで減速。
 ユリカにメグちゃんと呼ばれたメグミ・レイナード通信士は、観測船と交信。

「船長、観測船より通達です。当面危険は無いと思われるが、念の為に迂回しろとの事です。それから……」
「それから?」
「あまり騒がしくするな、だそうです。観測機材を下ろしているそうで」

 ユリカは苦笑する。

「了解した、と伝えて下さい。なでしこ、進路変更します」



S−6 なでしこ 食堂

「それは、本当のオムレツじゃないよ」

 ルリが施設で食べていたオムレツの話を聞いて、アキトは大きくうなずいた。

「えっ?」
「そういう、手間のかけられない所じゃ、専用の型に流し込んで、一気に何個も作っちゃうんだ。そんなの、オムレツとは呼べないよ」
「そうなんですか……」

 ルリはただ感心するしかない。

「テンカワさんのオムレツ、とても甘くてふわふわで、おいしかったです……お砂糖でも入れたんですか?」
「いや、砂糖は入れてないよ。卵に、生クリームを入れるんだ。無ければ牛乳でもいいけど、後は塩で味を調えて、たっぷりとバターを使って焼く。バターで揚げるって言った方がいいかな?」
「クリームですか…… それでふわふわに……」
「違うよルリちゃん。ふわふわになるのはね、焼き方なんだよ。フライパンに溶いた卵を入れたら、炒り卵になる一歩手前程度までかき混ぜるんだ。それで端を折り返して形を整えて、裏返して焼き上げる」

 生き生きとした表情で、オムレツについて語るアキト。

「………」
「これが本当の、オムレツなんだよ」
「本当の……」

 不意に、ルリが持っていた船内無線…… 通称コミュニケが音を立てた。

「はい、ルリです」
『あ、ルリルリ? 今どこに居るの?』

 ミナトだ。

「食堂で、テンカワさんに朝食をごちそうになっていた所です」
『え〜っ! ルリちゃん、それ本当!?』
『ちょっと、船長。私が話してる所に割り込まないで』

 ユリカの大げさな声が被さってくる。
 アキトの幼なじみにして「自称恋人」としては、聞き捨てならないのだろう。
 ルリの隣では、アキトが天を仰いでいた。

『とにかくルリちゃん、航路変更の為にオモイカネの力が必要になったの。ブリッジまで来てくれる?』
『アキトぉ』

 ユリカの声に、アキトは顔をしかめながら答える。

「……何だよ」
『……コーヒーセット、持ってきて』

 なでしこの食堂は、持ち場を離れることのできない人間のために、出前もやっている。
 嫌とは言えないアキト。

『アキトさん、私もです』

 と、メグミ。

『あ、それじゃあ私も』

 便乗するミナト。
 アキトは苦笑するほかない。

「ルリちゃんは?」

 隣のルリに聞く。

「私はいいです。ブリッジには給茶器も、インスタントのコーヒーもありますし」

 そう、遠慮するルリに、アキトは首を振る。

「ついでだから、遠慮しなくてもいいよ」
「はい…… それじゃあ、私、先に行きますね」
「うん」



S−7 デルタIV級 発令所

「深度100」
「潜望鏡用意」

 イワノフの声は不機嫌だった。
 何しろここは、まだ日本の領海内である。
 そこで浮上しての船外活動など、気が重くならないわけがない。
 例え音紋で日本の潜水艦、自衛艦に捉えられたとしても、大した問題にはならない。
 しかし、浮上した姿をカメラに収められたら……
 この艦の全員が軍事裁判所送りだ。
 現在本国は西側諸国と協調し、立ち後れている経済の立て直しを第一に考えている。
 そんな時に核を積んだ弾道ミサイル原潜が、こんな所をうろついているという事を公にするわけにはいかない。
 絶対に。

「上です艦長! 上方50メートルに磁気反応!」
「なっ……」

 発令所の空気が瞬間、凍り付いた。

「急速潜行ーっ! 目標深度150!!」
「間に合いません、ぶつかります!!」



S−8 なでしこ ブリッジ

「お待ちどう様、コーヒーセットです」
「アキトぉ!」
「船長、ミーティング中です」

 すぐさまアキトの元に駆け寄ろうとするユリカを、止めるルリ。
 GPSをリンクさせたオモイカネにより、航路の算定はあっという間に終わるが、最終的な判断は、船長たるユリカと航海士であるミナトが下さなくてはならない。

「あ……!!」

 不意に、声を上げるアキト。

「え?」

 遅れて、巨大な質量を持った金属同士がぶつかる音、鋼の悲鳴が響く。
 振り向いた一同の前で、巨大な水柱が観測船を覆い隠した。



S−9 デルタIV級

 すさまじい衝撃が、艦を襲った。
 デルタIV級は後部ブロックの上に、観測船を乗せる形でぶつかってしまったのだ。
 身体を支え損ねた者は、残らず壁や床に叩き付けられ、運の悪い機関士の一人は、首の骨を折って絶命した。
 配電盤が火を噴き、警告灯の照り返しで、発令所は赤く染まる。

「右舷機関室浸水!」
「後部第一居住ブロック、浸水が激しく、排水が間に合いません!」
「隔壁下ろせ!」
「しかしまだ乗員が……」
「かまわん。貴様、この艦を沈めるつもりか! トリムバランス崩すな! 一気に沈むぞ」

 ぐらり、と船体が傾いだ。

「ええい、浸水区画に圧搾空気を送れ! バラストタンク排水! 浮上しろ!」



S−10 なでしこ ブリッジ

「ええっ!」
「何!?」

 観測船は、船首を空中高く上げたかと思うと、一気に沈み込んで行く。

「何? 海底火山?」
「それなら、噴出物で海が染まるはずです」

 ユリカはすぐさまその可能性を捨てた。

「あれは……そう、海中の何かとぶつかった様な……」

 はっと顔を上げる。

「ソナー、いいえ、魚探打って!」
「え?」
「早く!」

 訳が分からないながらも、切迫した様子のユリカに急かされ、魚群探知機のスイッチを入れるルリ。

「っ!?」

 巨大な影が、スクリーンに浮かんだ。
 沈んで行く観測船の方から、こちらに向かって来る!
 ユリカはスクリーンを見て叫んだ。

「両舷全速、面舵一杯!」
「あ、あ……」

 前方の海が、大きく盛り上がる。
 そこから波を割って現れたのは、黒々とした鋼の巨船だった。

「潜水艦!?」

 叫ぶアキト。

「ぶつかる!」

 メグミが悲鳴を上げた。

「回避して下さい! 総員対ショック防御!」

 ミナトが思いっきり舵を切る。
 だが、潜水艦は目の前だ。



S−11 デルタIV級 発令所

「前方に磁気反応!」
「何ぃ!!」

 イワノフは潜行を命じようとし、思い止まる。
 今ここで潜ったら、二度と浮上できなくなる恐れがある。

「回避しろ! 面舵一杯!!」



S−12 なでしこ ブリッジ

「くそうっ!」

 黒々とした船体が、間近に迫る。

「ぶつかるぞ!」

 ぎりぎりを、掠めるようにして潜水艦とすれ違う。
 どうっ、とその余波が船体を大きく傾けた。

「きゃっ!」
「ルリちゃん!」

 倒れかかるルリの身体を、アキトが支える。

「あ、ありがとうございます」

 抱きかかえられたまま、ルリ。

「大丈夫かい、ル……」

 更に大きなショックに、二人は揃って足下をすくわれる。

「だっ!」

 アキトはとっさにルリの下に回り込んだ。
 床に背を打ち、息を詰める。
 ドドドド……
 波飛沫が高く上がり、なでしこを覆い隠した。



S−13 デルタIV級 発令所

「なっ、何とかかわしました」

 ふう、と息をついて、イワノフは額に浮かんだ汗を拭った。

「各員、ダメージの回復に全力を注げ! ぐずぐずしている暇は無いぞ!」

 そう、檄を飛ばし、自らハッチに手をかけて、司令塔を登り始める。



S−14 なでしこ ブリッジ

『乗員の皆さんは、各部のチェックをお願いします』

 メグミの声が、館内放送を通じ、全艦に流れる。

「大丈夫ですか?」

 心配そうに、アキトの顔をのぞき込むルリ。

「あ、うん、ルリちゃんの方こそ……」

 ルリの心配を先にするアキト。

「私はテンカワさんのおかげで無事です」
「そうか、良かった……」

 ほっとした様子で、笑みを浮かべるアキト。
 痛みで多少、引きつってはいたが。

「一体何なの? 自衛隊の潜水艦?」

 大きく息をついて、ミナト。
 一同は、船窓越しに、問題の潜水艦を見る。
 向こうも、司令塔ハッチから人が出ており、こちらを伺っているようだった。
 前甲板や、後甲板にも人影が見える。

「あれ? あれは……」

 思わず呟くユリカ。
 潜水艦の船体中央部の区画が、四角く顕著に高くなっている。
 あれは……

「デルタ級ですね。ロシアの戦略ミサイル原潜。骨董品です」

 いつの間にか隣に並んでいたルリが、醒めた声で言う。

「良く知ってるね、ルリちゃん」

 目を丸くするユリカに、ルリは冷たいままの表情で答える。

「一通りの軍事知識は頭に入ってます。そういう所に居ましたから」

 他人事のような口調。

「でも、ここってまだ日本の領海じゃなかったんですか?」

 メグミが疑問を口にする。

「そうね、いくら境界近くとはいえ、日本の領海で事故を起こして船を一隻沈めたんだもの。それも、核ミサイルを積んだ弾道ミサイル原潜が」

 さすがに、真剣な面もちで答えるユリカ。

「大問題になるわ」



S−15 デルタIV級 司令塔

「魚雷発射用ー意。五番、六番発射管開け」

 イワノフはマイク越しに低い声で命じた。

「艦長!?」
「発射位置につけ。気取られないよう、大きく回って相手の正面に出るんだ。作業の方はどうなっている? 沈めた後、他の船が来ない内に逃げ出すぞ」
「艦長、何を言っているんですか! 何を……」

 イワノフは副官の方を見た。
 北海の氷のごとき、冷たい、そして妙に底光りする彼の目に見据えられ、副官は口をつぐんだ。

「この事実を公にするわけにはいかん。全てを、この海底深くに沈めるしかないのだ」
「しかし、相手は民間の漁船で……」

 言い募る副官を、イワノフは怒鳴りつけた。

「監獄送りでは済まんのだぞ! 死にたいのか!」
「は、はっ!」

 副官は真っ青な顔をして敬礼した。



S−16 なでしこ ブリッジ

「ユリカ、俺は上に登って、観測船の生存者を捜すからな」

 無線と双眼鏡を用意しながら、アキトは言う。

「うん、お願いアキト」

 アキトに拝むような仕草を返すユリカ。
 ……無駄だと思いますけど。
 前方の惨状を見つめていたルリは、そう呟きそうになったが、寸前で思い止まった。
 アキトの悲しげな顔が、脳裏を過ぎったのだ。

「アキトさん、上は寒いですよ。はい、このコートを着ていって下さい」
「あ、ありがとメグちゃん」
「メグちゃんずるい! それは私の役目なのに〜」

 背後の喧噪を耳にしながら、ルリはきゅっと小さな拳を握りしめる。

「バカばっか……」



S−17 デルタIV級 司令塔

「距離は?」
「2300です。近すぎます。後退しますか?」
「いや、早い所、済ませた方がいい。爆発安全距離を2000にセット。アクティブホーミングモードだ」
「了解。上手く行きますかね」

 副官は白茶けた顔でイワノフに訪ねた。

「わからん。水上での目測による発射など、経験がないからな。だが、魚雷さえまともに働けば、上手く行くはずだ」
「艦長、あと二、三分でソナー回復します。内殻破損の方も、一応の処置が終わりました」

 技術士官の報告に、イワノフはニヤリと笑った。
 ……ようやく運が向いてきたか。



S−18 なでしこ ブリッジ

『妙だな……』
「何がです、アキトさん?」

 無線越しのアキトの呟きを耳にしたメグミが訪ねる。

「アキト?」

 海図を挟んでミナトと話し込んでいたユリカも、何事かと顔を上げた。

『いや、あの潜水艦なんだけど、動きが妙なんだ。そっちからも見えると思うけど、こっちの進路に被さるように回り込んで来てる』
「まさか……」

 常になく真剣な表情で考え込むユリカを、怪訝そうに伺うミナトとメグミ。
 そして、ルリは魚探のスイッチにそっと手を添えた。



S−19 なでしこ マスト上 監視台

 釈然としない様子で、アキトは潜水艦を見つめていた。
 デルタ級の黒い船体が、にわかに不気味に思えてくる。

「何だかなぁ……」

 ぶるっと身体を震わせて、双眼鏡を覗く。
 潜舵を備えた司令塔、丸い艦首……

「なっ!」

 身体が凍り付いた。
 無線に向かって叫ぶ。

「魚雷だ! 撃って来やがった!」

 海面を、二つの黒い影がこちら目がけ、一直線に向かってくる。



S−20 なでしこ ブリッジ

 アキトの報告を受けたユリカの顔色が変わった。

「ルリちゃん、魚探!」
「はい」

 魚群探知機のスクリーンが、潜水艦からこちらに向かって来る二つの小さくずば抜けて速い影を映し出す。

「魚雷!?」
「両舷全速、左30度に針路修正! 魚雷と正対して下さい!」

 下された指示に驚き、ユリカの方を振り返るミナトとメグミ。

「早く!」

 せっぱ詰まった様子で急かされ、相手の正気を疑う暇もなく、反射的に指示に従う。

「せ、船長、魚雷に向かうんですか?」

 メグミが甲高い声を上げた。

「そんなの自殺……」

 急な加速に、船体が大きく揺れた。
 エンジンが唸りを上げる。

「急いで! 1メートル、1センチでもいいから距離を詰めて下さい!」



S−21 なでしこ マスト上 監視台

「魚雷が正面から来るぞ! ブリッジ!?」

 凄いスピードで魚雷が近づいて来る。
 ……ぶつかる!
 アキトは手摺りをつかみ、両手両足を踏ん張って、衝撃に備える。
 シャアアアアアア!

「来る!」

 ドウッ!
 左舷に斜めにぶち当たる。
 水柱が立ち、アキトの居るマストの上まで飛沫が上がった。
 船体が震える。
 振り落とされないようにしがみついていたアキトはしかし、叫んだ。

「不発だ!?」

 続いてもう一発が直撃するが、これも不発だった。

「何なんだ!?」



S−22 デルタIV級 司令塔

「不発!? 二本とも不発です艦長!」

 双眼鏡で目標を注視していた副官がわめく。

「違う……」

 イワノフは呆然と呟いた。

「不発だったのではない。不発にしたんだ」
「は?」
「こちらに向かって来ることで、爆発安全装置の設定、2000メートルを割らせたのだ。何という……あれに乗っているのは、よほどの策略家か賭博師だ。本当に民間船なのか?」

 二発の不発魚雷を受けたなでしこは、そのままの速度で突っ込んで来る。

「何を考えているんだ? ぶつかるぞ」
「カミカゼ……」

 イワノフは思わずそう漏らした。
 副官の顔が青ざめる。

「回避して下さい艦長! 衝突します!!」

 イワノフは、なでしこをにらみ付けたまま動かない。

「艦長!」
「機関始動、取り舵一杯!」



S−23 なでしこ ブリッジ

「船長、前底部で浸水です!」
「手の空いている方を、防水に当たらせて下さい。とにかく速度を維持です!」

 なでしこは高速のため、激しく揺れる。
 ユリカはコンソールに両手をついて、身体を支えた。

「メグちゃん、SOSは?」
「発信しっぱなしですよ!」

 メグミは泣き出しそうな声で答える。

「潜水艦が動いた! 取り舵20度、転舵します!」

 ドウッ!
 なでしこは慌てて回避行動をとるデルタIV級の脇ぎりぎりを掠める。

「ここです! スクリュー逆転5秒、減速です!」
「減速します」

 デルタIV級の船体に盛大な水飛沫を浴びせかけて、なでしこは相手の後ろへと抜けた。

「回頭180度、面舵一杯! 潜水艦の後ろにつけて下さい!」



S−24 デルタIV級 司令塔

「ええい、クソッタレ!」

 水飛沫をもろに頭から被り、イワノフは喚いた。
 隣で副官が同じように濡れネズミになりながら、後方を見て叫ぶ。

「後ろに付かれました!」
「むううっ、何て奴だ! 船速最大! 引き離せ!!」



S−25 なでしこ ブリッジ

「逃がさないで下さい! 離れたら撃たれます!」
「無茶言わないで、相手は原子力なんでしょ!」

 悲鳴を上げるミナトに答えたのはルリだった。

「とりあえずは大丈夫でしょう。いくら原子力潜水艦でも、海上では造波抵抗が大きくて、高速は出せないはずです」



S−26 デルタIV級 司令塔

 現代潜水艦の船体は、水中での抵抗と運動性を考え、涙滴型となっており、水上での安定性は決して良い物ではない。
 高速で航行するデルタIV級の船首は波を被って、司令塔基部まで水没していた。
 その後ろになでしこは、ぴったりと付いて来る。

「くそっ、水上では勝てんか!」

 イワノフは揺れる司令塔上で、必死に身体を支えつつ、歯噛みした。

「艦長! ソナー、限定的ですが、機能回復したそうです」

 下からの報告に、イワノフはニヤリと笑った。

「よし、潜るぞ!」

 艦内に戻る前に、もう一度なでしこをにらみ付ける。

「茶番もこれでお終いだ。貴様がどんな策を弄そうとも、所詮は非武装の洋上艦。三次元航行が可能な潜水艦に勝てはせんのだ!」



S−27 なでしこ マスト上 監視台

 アキトは揺れる監視台の上、必死に身体を支えながら頑張っていた。
 砕ける波と、響き渡る機関の音で、大声で喚かないと、無線が通じない。

「メグちゃん? ユリカに伝えてくれ。司令塔に居た人間が中に引っ込んだ。潜る気かも……いや、司令塔に付いてる舵が下を向いた。潜るぞ!」



S−28 なでしこ ブリッジ

「潜るの!?」
「どうするんです船長! 海中に逃げられたら、打つ手がありませんよ!」

 口々に叫ぶミナトとメグミ。
 だがそんな中、ユリカはきっぱりと言い放つ。

「全速前進、体当たりです。相手のスクリューを狙って下さい」

 それまで沈黙を守っていたルリが、ちらりとユリカを見る。

「確かに、それしか無いようですね」

 いつもの他人事のような口調。
 それが、ミナトとメグミに、現状を認識させる。

「…………」
「急いで下さい! 逃げられちゃいます!」
「は、はい」

 なでしこは体当たりを敢行すべく、機関を唸らせ更に増速する。



S−29 デルタIV級 発令所

 潜行を開始した直後、大きな衝撃が艦全体を揺るがした。
 司令塔ハッチのロックをしていた副官は跳ね飛ばされ、発令所の床に叩き付けられる。

「何だ今のは!」

 イワノフが叫ぶ。

「体当たりです。艦尾に突っ込まれました!」

 オペレーターが報告する。

「馬鹿な! 被害は? 確認急げ!」
「右スクリュー大破! 推進力が得られません!」

 デルタIV級は、二軸推進である。
 左スクリューの推力だけとなり、進路が右に取られる。
 遠心力で左の壁に押しつけられながら、イワノフは呆然と呟いた。

「何て奴だ……何て戦法を使いやがる。たかが民間船が、ここまでやるのか?」
「舵、右に取られます!」
「艦長!」
「修正しろ! 潜行は続行だ。左スクリューがやられたら、お終いだぞ!」

 イワノフは命令を下し、血走った目をなでしこの居る方、艦尾方向に向けた。

「化け物め! 必ずこの手で沈めてやる!」



S−30 なでしこ ブリッジ

「船首に浸水!」
「魚探、今ので壊れました。使用不能です」

 なでしこの方も、状況はあまり良いとは言えなかった。
 次々に被害報告が入る。

「船長、機関が限界よ」
「速度、ゆるめて下さい。最微速です」

 事務的に指示を出しながら、ユリカは内心、ため息を付いていた。

「逃がしちゃったか……」
『ブリッジ?』

 無線越しのアキトの声。

「アキト、大丈夫だった?」
『まぁ、何とか。それよりも潜水艦は……』

 密かに耳をそばだてていたルリは、元気そうなアキトの声にほっと胸をなで下ろす。
「逃げられちゃった。でも片方のプロペラを潰したから、そう速度は出せないはず。攻撃可能な位置につくまでには時間がかかると思うよ」
「この場合、機関を止めてた方がいいんじゃないですか?」

 ルリが口を挟む。
 ユリカは感心した様子でルリを見た。
 そして、生徒に対する教師の口調でそれを否定する。

「こっちは武装のない民間船だもの。安心して探信波を打って来るわ。音を消して潜んでいたとしても、アクティブソナーの前では同じよ」
「なら、逆に全速でジグザグ航行をして、航跡をジャミングするとか……」
「機関がオーバーヒート気味だから……今は温存して、いざという時に備えたいの」

 そう言いつつも、ルリとの会話からヒントをつかむユリカ。

「……行けるかも」
「船長?」
「ありがとルリちゃん」
「?」

 ルリに笑いかけたユリカは、無線に向かってアキトを呼ぶ。

「と、いうわけで、今はアキトの目だけが頼りなの。魚探も壊れちゃったし」
『ああ』
「雷影に気を付けて。あとは潜望鏡」
『分かった』
「船長」
「何、ルリちゃん」
「私も上に行って、監視をします。ここに居ても、やること無さそうだし」
「でも、危ないよ?」
「魚雷に狙われたら、どこに居ても一緒です」

 そう、言い残してルリはブリッジを出る。
 ユリカはため息をついて、ミナトに進路の修正を指示した。


■ライナーノーツ

 だいぶ前に書いたお話なので、出てくる潜水艦は新しい物に変更しています。
 書いた当時はドラゴン製のプラモデル、
中古プラモデル1/700 日本海上自衛隊 ゆうしお級 攻撃潜水艦VSソビエト海軍 デルタIII級 ミサイル潜水艦(2隻セット) 「Modern Sea Power Series」 [7003]
 があって、これを見ながらお話を組み立てたものでしたが、自衛隊の潜水艦の更新スピードの早いこと!
 技術伝承のためなど色々と理由があって常に作り続けているのは知っていましたが、数世代分も進んでいて時の流れを感じます。

 今なら、デルタIV級はレジンキット、


 自衛隊のそうりゅう型は色々とあるんですがね。
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