雨に濡れた路面に響くタイヤの悲鳴。
闇を切り裂くヘッドライトの光。
「危ないっ!!」
その時、宙を飛んだ気がしました……
〜約束〜
「馬鹿野郎! 気を付けろ!」
心底驚いたのでしょう、通り過ぎざまに浴びせかけられる裏返ったドライバーの罵声。
私は…… 私は男の人の腕の中にいました。
「怪我は…… 怪我はないか?」
「は…… はい」
何とか答える私。
「雨で視界が悪くなってるんだから! 真夜中だからって、ほいほい車道なんか渡ったら危ないだろっ!」
「す、すみませ……」
「俺に謝ったって、仕方ないだろうがっ!」
あの、ちょっ…… と?
「あ…… あの」
助けてくれたからって、これは……
「何の為に、そのでっかい目がついてるんだ!?」
これは……っ
「死んだらどうするんだよっ! ばかっ!!」
何なんでしょうか、この人は……!?
確かに、ぼうっと車道に渡った私も悪かったです。
でも、何で今会ったばかりの人に、ここまで言われなきゃいけないんでしょうか?
何だか無性に腹立たしくて……
強引に相手の手を振りほどいてしまいました。
「お?」
「どうも、お世話様でした」
頭を下げ、相手の顔もろくに見ないまま歩き出す。
「おいおいおいおい、ちょっと待て! 怪我してるじゃないかっ! 靴も片方無いぞ!」
あ?
「それに、そんなカッコで街中ウロついてたら、危な……」
「……どこ?」
「は?」
「私の家…… どこでしたっけ?」
ここはどこ?
わたしはだれ?
まさか、私がこんなバカバカしい身の上になるなんて……
私は…… 片方の靴と一緒に、自分の記憶まで失くしてしまったようです。
「このどしゃ降りの雨の中、傘も持たず、所持品も無し、ついでに靴も失くして、記憶も無くすか……」
ため息をもらす、彼。
「車にはねられそうになるし、今日は君、ついてないな」
……ついてないの一言で、済ませられるような事ではないと思いますが。
でも、引きずられるようにしてこのヒトの部屋に来てしまいましたが…… 大丈夫ですよね。
少なくとも行き場のない少女にどうこうするようなヒトには見えませんし。
シャワーと着替えも、こうやって貸してくれましたし。
「……で、どっちがいい?」
「は?」
「上がいい? 下がいい?」
大丈……
「え!?」
「聞いていなかったのか? 上のロフトのベットと、下のソファベットのどっちがいいかって聞いたんだよ」
「あ……」
どうも、話を聞き流していた様です。
それにしたって、紛らわしい聞き方はしないで欲しいものですが……
………
……顔、赤くなっていないですよね。
「疲れてるなぁ、少し眠った方がいい」
「でも私、夜が明けたら出て行きますから」
「服が乾かないよ。それに交番は逃げたりしない」
かすかに微笑む、彼。
「身元が分からなくて焦る気持ちも分かるけど、今の君は怪我をして、ひどく疲れてる。少なくとも、車道を渡ろうとした時の君は、誰かが支えていないと倒れそうな程、足下がおぼつかなかった」
誰かが支えていないと……
「目が…… 離せなかった」
不思議です。
この人の声には、催眠効果でもあるようです。
「今の君に一番必要なのは、休息だよ」
力が抜けて行く……
心地よい気だるさがまぶたを覆う。
「大丈夫、俺が居るから」
深い…… 深い眠りに落ちる。
「安心してお休み」
全てを思い出したい。
全てを忘れたい。
想いは、ちぐはぐで……
そうして、悲しい夢を見る。
「……はあ、はあっ……はあ…っ」
……何?
跳ね起きたとたん、夢の記憶はおぼろに霞んで行く。
この胸に、鉛の様なしこりを残して。
「あ……っ」
熱いものが頬を伝う。
この涙は何?
胸が苦しくて、せつなくて。
せつなくて、
せつなくて、
気が狂いそう……
翌朝……
「よく眠れた?」
「おかげさまで」
全然眠れませんでした……
「それで…… 今頃聞くのも何ですが……」
「ああ、ごめんごめん。まだきちんと言ってなかったね。テンカワ・アキト」
「テンカワ…… さん?」
「アキトでいいよ」
テンカワ・アキト……
「綺麗な響きですね」
本当に。
……変なサングラスで顔隠していますけど、外せばいいのに。
「私は……」
夢の中で……
「私は、何て名前なんでしょうね」
……悲しい夢の中で、誰かが私の名前を呼んでいた気がしますが。
「………」
アキト…… さん?
「警察へ…… 行こうか」
「………」
「大丈夫だよ。女の子なんだし、みんなだって心配してる。捜索願いもきっと出てる。何より、遺伝子パターンをデータバンクと照合させれば身元はすぐに割り出せるし」
違う……
違います。
私が怖いのは……
ドクン!
「なっ…… おいっっ! どうしたんだ!?」
何……
何が?
この、気の遠くなるような悪寒は……
「!?」
「うわっ!」
うわ?
あ……
ひっくり返った洗面器を、頭からかぶったアキトさん。
どうやら……
起きた拍子に私、アキトさんのこと、跳ね飛ばしちゃったようです。
………
「倒れた後、あんまり汗かいて苦しそうだったから、濡れたタオルで冷やしてやろうと思ったんだけど」
濡れた服を着替えたアキトさん。
やや憮然とした表情。
「ずいぶんと元気になったようだから、もう必要ないな」
「済みません……」
台所の方に歩き去るアキトさんの背中に謝る私。
不可抗力なのだし、そんなに怒らないでもいいじゃないですか…… というのは甘えでしょうか?
「……一時はどうなるかと思ったけど、ほっとしたよ」
え?
「そのくらい元気だったら、俺の作る飯でも食えるよな」
顔を上げると、アキトさんはエプロンを付けてこちらを向いていました。
「何か、食べたいものある?」
何が……
「……メン」
「え?」
「ラーメンが…… 食べたいです」
「………」
「アキトさん?」
「味は…… 保証できない」
「はぁ」
おかしな…… ヒトです。
それにしても、この部屋……
昨日は落ち着いて見てる余裕もありませんでしたが。
「生活臭の無い部屋ですね」
「……鋭いね」
キッチンに向かったまま、答えるアキトさん。
「借りの住まいだからね。長く留まるわけじゃない」
「そう、ですか…… ご家族は?」
「……もう、居ない」
アキトさん?
「ちょっと味を見てくれないか?」
「はい? ……ちょっと薄すぎません?」
「だろうな」
「だろうなって……」
「じゃあ、これでどう?」
「あ…… しょっぱさはいいんですが、あっさりしすぎと言うか……」
「ふむ」
なんでしょう、これ。
こうしていると、何か……
この味、いつか…… どんどん近づいてる。
でも、違う……
「……だな」
「え?」
いつの間にか、考え込んでしまった様です。
握りしめ過ぎて、強張った指……
「こうしてると、俺たち家族みたいだな」
「え、私、娘ですか?」
「逆じゃあ、無理があるだろ」
家族……
「……こ、このままここに居たいって言ったらどうします?」
これは、見えない現実から逃げてるんでしょうか……
「……居ていいよ」
え!?
「そっ、そんな!」
どうしよう。
「ご、ごめんなさい。今のウソです。ゆ、夢見が悪くて、今私、弱気になっていて。ごめんなさい、考えが後ろ向きですね」
馬鹿なこと言った。
「やっぱり私、今すぐ交番に……」
「記憶が戻るまでここに居ればいいと思うよ」
「え?」
「必要なことは、自分が必要だと思った時に思い出すよ。きっとね」
「……もし……ずっと思い出さなかったら?」
「ずっと居ればいい」
「うっ、ウソばっかり!」
「ウソじゃないよ」
アキトさんの顔から、笑みが消える。
「……嘘じゃないよ。俺…… もう嘘はつかないから」
もう?
「アキトさんって、嘘つきだったんですか?」
「……痛いところを突くなぁ」
苦笑するアキトさん。
「大切な家族、大切な娘との約束、守れなかったんだ」
アキト…… さん?
「彼女は、ずっと待ってたって言うのに。もう、独りにしないって約束したのに……」
「あ……」
「だから、もう、俺には家族と呼べる人は居ないんだ」
「………」
「……どうして」
「………」
「どうして、君が泣くの?」
自分でも……
自分でも分からないまま、涙が溢れました。
「きっと…… きっとその人は、今でもアキトさんのこと待ってますよ。約束なんか無くたって」
だけど……
「嘘…… つかれても、アキトさんのこと嫌いになんてなってない」
……痛い位、その人の気持ちが分かる。
「今でもアキトさんのこと待ってますよ、きっと」
どうして?
「……うん、だけどね」
顔を背けるアキトさん。
「もう…… 手遅れなんだ」
何が手遅れなんですか?
そう聞こうとしましたが……
答えが怖くて口にはできませんでした。
予感がするんです。
悲しい予感……
「んっ…… あ……」
「…リ…ちゃ……だめっ!」
シャ……落……
離陸間……
「……どうして?」
「いやあああああっ!?」
「大丈夫?」
「あ……」
「凄い、うなされてたよ。何事かと思ってびっくりした」
「あ…… う……」
手を、伸ばす。
「大丈夫だって、俺が……」
この人に……
「……ついてるから」
すがりつく。
「……思い出したくない。……っ、ここに居たい」
予感がする。
冷たくて、悲しい予感。
「……ん」
え?
「大丈夫だよ」
今なんて?
「こうしていてあげるから、安心してお休み」
このまま、このヒトの優しさに甘えちゃいけない。
「悪い夢を見たら、起こして上げるよ」
……なのにこうしていると、嘘のように不安が消えて行く。
どうして…… 初めて逢ったヒトなのに、不思議なくらい落ち着く。
………
……だけど、
さっき言った言葉。
「ごめん」って聞こえた。
「よく眠ってるわね」
「ああ」
「………」
「……ずっと眠っていなかったんだ。あの日から、凍り付いたように涙を流すこともできずに、でも心の中では泣き続けて…… 見ていられなかった」
「だけど、いつまでもこの生活を続けるわけにもいかないでしょ。彼女、もう気づき始めてる」
「分かってる」
「あなたは、この……」
「分かってるよ…… もう少しだけ時間をくれないか? 俺にはしなくちゃいけないことがある」
「もう、二度とルリちゃんとの約束、破りたくないんだ」
「きゃああああ!!!!」
「もう終わったから、目を開けて」
「じゃあ、次はあれに乗りましょう、ダブル・ループ!!」
「止めといた方がいいよ。ああいうのばっかり乗り回すのは。……その内吐くぞ」
「それじゃ、あっちのに乗りましょう」
「……嬉しいのは分かったから、少し落ち着いて」
「でもでも……」
嬉しかったんです。
出かけるからって言って、服を買ってくれて、その上、遊園地にまで連れてきてくれるなんて。
くすりと笑うアキトさん。
「……分かったよ」
夢を見てるみたいでした。
楽しい、楽しい夢。
色んな乗り物に2人で乗って、アイスを食べて、遊んで……
「のど…… 乾いただろ」
「え?」
「待ってて、何か買ってくる」
駆け出すアキトさん。
そのポケットから何かが零れて……
「あっ、アキトさん、お財布落としましたよ! アキトさん!」
気付かず行ってしまうアキトさん。
「仕方がないヒトですね」
ため息をつきつつ、お財布を拾うと、何かがはらりと落ちました。
写真?
「……え?」
アキトさんと、女のヒト、そしてこれは…… 私?
「ルリルリ!?」
この呼び方……!
振り向くと、息を切らした女のヒトが、私を見ていました。
明るそうなその人には似合わない、黒い服。
まるで、喪服の…… よ…… な!?
「良かった…… どこ行ってたの、ルリルリ。心配したのよ」
「あ、あ……っ」
助けて……っ。
「今朝電話があったの。ルリルリは今日ここに来るって。いたずら電話かと思ったわ。だってその声……」
悲しい夢が、悲しい予感が……
「シャトル事故で死んだはずのアキト君だった……」
現実になる。
「いやああああああっ!!!!」
「ルリルリ!」
私は知らない。
何も思い出さない。
だから、誰も死んでいない。
「約束したのに……」
「お土産持って、帰って来るって」
「家族三人、いつまでも一緒に暮らそうって言ったのは、アキトさんなのに……」
「アキトさんの嘘つきっ!!」
「……やっと、思い出してくれた?」
観覧車の前、手をさしのべるアキトさん。
「さあ…… 乗ろう。これで最後だ」
夕暮れに染まる景色。
「綺麗ですね」
「ああ」
「お別れ、言いに来たんですね」
「……ああ。今の俺はジャンプ事故でたまたまここに居るだけの、君にとっては幽霊でしか無い存在だ。タイムパラドックスを考えれば、時間どころか、世界すら違うのかも知れない」
「……卑怯です」
涙が、あふれた。
「ずるいですアキトさん。嘘ついて、何が『家族は居ない』ですか!」
「………」
「私、待ってたのに、ずっと待ってたのに」
涙が、こぼれた。
「ま…… またどこかに行ってしまうなんて、勝手すぎる……」
「ごめん……」
「嫌です。行かないで下さい」
アキトさんの手が、私の頬に触れる。
こんなに……っ、暖かいのに……
「約束破ってもいい。嘘つかれても平気です。だから……っ」
アキトさんの身体にすがりつく。
「どこにも行かないで……っ!」
「……ごめん」
「だめなら、私も連れて行って下さい!!」
私、知ってます。
死んだはずのアキトさんがどうしてあの日、私の前に現れたのか。
あの時、私は車にひかれそうになったんじゃない。
アキトさんたちの傍に行くために、車道に飛び出したんです……
「……ごめん」
それは、別れの言葉。
「……俺、ルリちゃんが好きだよ」
アキトさんの指が、私の涙を拭う。
「俺と、ユリカの側で笑ってくれるルリちゃんが好きだった」
予感がしてました……
「会えなくても、想っているから。ルリちゃんのこと、忘れたりしない、できないから」
お別れの予感……
「今すぐは無理でも、いつか…… また笑って欲しい」
最後に、額に淡い口づけの感触を残して、あの人は……
「約束…… して欲しい」
行ってしまいました……
気が付くと目の前にアキトさんの姿は無く、代わりに目を涙で一杯にしたミナトさんたちが居ました。
「ルリルリ!」
「ルリちゃん!」
「どこへ行ってたの! 心配してたんだからみんな!」
「お葬式の日から居なくなったりして、まさか……って!」
「ミナトさんなんて、ずっと……」
みんな……
「ルリルリ…… もう馬鹿なこと考えないで」
「ごめ…… なさ…… い」
「ルリルリ……」
「私、もう、大丈夫ですから……」
眠れない夜は、まだ続くかも知れない。
でも、アキトさんは私の為に会いに来てくれた。
アキトさんと約束した。
だから、またいつか……
アキトさんが好きだって言ってくれた、私の笑顔。
いつか…… また浮かべられる日が来るのかも知れない。
だから今は……
「お帰りなさい、アキト」
自分の胸に飛び込んでくる少女。
自分に全てを預けて来る彼女の重み。
ラピスの声が、ジャンプアウト後の違和感を拭い去る。
帰ってきた、現在に…… 現在の自分に。
見慣れた、ユーチャリスのブリッジ。
そして、腕組みをしたエリナ・キンジョウ・ウォンが、ラピスと共にアキトを迎える。
「お帰りなさいと言いたいところだけど…… やっぱり、シャトル事故の直後に現れたテンカワ・アキトは未来から跳んだ、あなただったのね」
エリナのそれは、問いかけではなく断定。
「まったく…… あの時は冷や冷やしたんだから。幸い、ホシノ・ルリはあなたをジャンプ事故が生んだ亡霊と思ってくれたようだったから、誤魔化す手間をかけずに済んだんだけどね」
形の良い眉をひそめ、そうぼやくエリナ。
しかし、アキトの顔を真っ直ぐに見つめ直し、言う。
「でも…… タイムパラドックスが発生する危険を犯してでも、あの子を助けずには居られなかった。やっぱりあなたは……」
「……ああ」
ジャンプ事故で、あの事件の直後に飛ばされた時……
最初はCCを確保したら、すぐにでも帰るつもりだった。
だが……
「そうだな」
アキトの顔に、絶えて久しかった、本当の笑みが浮かぶ。
「ホシノ・ルリが知っているテンカワ・アキトは、死んではいなかったらしい……」
「アキト君……」
『おおっと、お取り込みの所、申し訳ないんだがね』
不意にシークレット回線のウィンドウが開き、アカツキ・ナガレが顔を見せる。
『ナデシコがやつらの罠に落ちそうになってる。至急、向かって欲しい』
そう言う間に、ユーチャリスへ詳細なデータが転送されて来る。
「火星の後継者」の残党の討伐に向かったナデシコとルリは、どうやら伏兵に気付かずに相手の誘いに乗ろうとしているようだった。
「ラピス……」
「わかった」
すぐさまボソンジャンプの態勢に入るユーチャリス。
「エリナ、これを」
ユーチャリスから立ち去ろうとするエリナに、一枚の書き付けを渡すアキト。
「え、何?」
「次の補給に追加だ」
「って…… これ!?」
「頼む!」
ブラックサレナの格納庫へと走り出す、アキト。
「これ……」
呆然とするエリナに、ラピスが言う。
「……ラーメンの材料」
「……っ、ホントにもうっ」
泣きそうになるのを、悪態をつくことで誤魔化すエリナ。
ブラックサレナへと…… 義娘を救うため、走るアキト。
『ラーメン、作るのアキト』
彼の半身とも言うべき少女の、声無き声が追いかけてくる。
『ああ、あんな酷いラーメンじゃ、ルリちゃんの所に帰れない』
『今度は、わたしが一緒だから……』
だから、大丈夫。
『ラピス……』
『わたしは、アキトの目、アキトの耳、アキトの手、アキトの足。わたしはアキトの半身だから』
何があっても、それだけは変わらないから。
だから、付いて行くだけなのだ。
アキトの向かう所へ。
『ああ…… 一緒に行こう』
今度こそは…… 何度も誓いながら、守ることの出来なかった……
ついには、口にすることさえできなくなった言葉を、もう一度。
『約束だ』
今はまだ、会えない。
だがいつかは……
あの日のルリが教えてくれた…… アキトがアキトで居る内は。
『『ジャンプ!』』
そして幾多の苦難の果てに……
約束は果たされた。
END
■ライナーノーツ
シャトル事故直後のルリのお話でした。
筋立て自体はこちら、