「よう天野」

 背後からかけられる声。
 振り向きかけた私の視界に、横に並ぼうとする相沢さんの姿が入って。

「あ……」

 ズボッ!

「ぐあっ!?」

 私が止める暇もなく、相沢さんの踏み出した足がすっぽりと雪の中に埋まってしまいました。

「なっ、何だこれ!?」
「大丈夫ですか?」

 バランスを崩しかけた相沢さんに手を貸して、その身体を支えます。
 男の人の身体は大きくて。
 私が支えようとすると、ほとんど抱きつくような感じになるのが恥ずかしいのですが。

「雪国では、あまり道の端は歩かない方がいいですよ。積もった雪で分からなくなっていますが、そこは……」
「天野?」


 側溝ですからね……



『それはたぶん雪のせい』



「むぅ、何の変哲もない道端に普通にトラップが仕掛けられているとは…… 恐るべし、雪国」

 真剣な顔をして、何を仰るかと思えば……
 ともあれ、

「ここ数日、酷く荒れてますからね」

 見渡せば、白。
 見上げても、白。

 雪国とはいえ、俗に言われる豪雪地帯とは比較にならないくらい雪の少ないこの街。
 それでも、一冬に何度かはこんな風に酷く降ることがあって。

 車道は除雪車が雪をどけてくれるわけですが、歩道の方はそうも行きません。
 それどころか、除雪車の寄せた雪が歩道側に乗り上げて、凄いことになっている所も。
 歩行者は、前に歩いた人が踏み固めた跡を歩くしか無いのですが、無理に横に並んで歩こうとそこから外れると、雪を踏み抜いて相沢さんの様な目に遭うわけで。

「何とかならないのか?」
「そうですね…… 何とかしている街もあるそうですよ」

 例えば、歩道にヒーターを入れるとか。
 例えば、水を常時流して、雪を融かし続けるとか。

「水で融かすって手があったか。それなら雪かきしなくていいな」
「でも、水を止めたら、あっという間に凍り付いてスケートリンクのできあがりですよ」
「……それもそうだな」
「それに、水でびしょびしょになりますから、あまり評判はよろしくありません。長靴履きの時代ならともかく、今はスノトレやブーツの方が多いですからね」
「スノトレ?」
「……相沢さんも履いているじゃないですか」
「あ、ああ、これか? 早朝マラソンのために秋子さんが買ってくれたんだが、そういう名前なのか?」

 早朝マラソンと言うのは、いつもの名雪さんとの登校のことですね(汗)
 スノートレッキングなのかトレーニングなのか、ともかく雪道に対応したくるぶしまでのスポーツシューズ。
 雪国の人間でないと知らないとは聞いていましたが、本当なんですね。

「……相沢さん、本当に雪の無い所の方なんですね」
「なんか、そうやってしみじみ言われるとアレだな」
「雪が降ると、学校がお休みになるって本当ですか?」
「ああ、列車が止まったりするしな」
「雪で電車が止まるんですか……」
「こっちじゃ、考えられないか?」
「地吹雪になっても電車は遅れる程度で。もちろん学校も普通にありますよ。雪だるまになりながら登校するんです」
「……笠地蔵みたいだな」
「傘は差しませんけどね」
「ああ、それ驚いた。傘も差さずにコートやアノラックで普通に歩いてるんだからな」
「そうですね。霙ならさすがに使いますけど、基本的に粉雪ですから。融けずに肩や頭に積もるだけで、払えば落ちますから」

 それにしても……

「なんだ、天野?」
「いえ、雪かきの辛さを知らないというのは羨ましいな、と」

 平均的な雪国の朝は、まず雪かきから始まります。
 日の出が遅いことはもちろん、厚く広がった雪雲のせいで薄暗い中。
 部屋の中すら寒く、いつまでも布団のぬくもりに包まれていたいような所を起き出して、雪の中に出なければならないのです。
 除雪車が家の前まで来てくれる所なら良いのですが、住宅地は、普通そう言うわけには参りません。
 ですから、車を出すために(雪国で車は必需品です)除雪してある道路までは、人力で掻き出さなければならないのです。
 一晩に5センチ、10センチと積もるようでは、ただその辺に寄せておくだけではダメで、近所の公園や堰などに捨てに行かねばなりませんし。
 黙々と往復をして、ようやく車を出せるようにして。
 もちろん、昼間だって雪は降りますから、夕方頃にはまた雪かきをして、今度は車が入れるようにしなければなりません。
 数時間もすればまた積もってやり直し、というのが分かっていて雪かきをするのは、本当に辛いことなのです。

「ぐぁ……」
「まぁ、これは本当に雪が積もる地方のお話です。この街では……」
「この街だと?」
「年に1、2週間程度ですよ、そんなに降るのは」
「ぐぁ……」

 脅かし過ぎてしまったのでしょうか?
 寒さに弱い相沢さんには相当に酷なお話だったようです。
 ですが……

「頑張って下さいね。相沢さんは雪かき要員として水瀬さんのお宅に派遣されたのだそうですから、期待されていると思いますし」
「何だと?」
「相沢さんのお母様がそう仰っていたと、秋子さんが」
「……あの親、息子を売ったな」

 本当に悔しそうに歯ぎしりする相沢さん。
 ……楽しそうなご家族ですね。

「絶っ対、元の街に帰ってやる」
「そう……ですか」
「天野?」

 名前を呼ばれて顔を上げると……
 相沢さん、どうしてそんな顔をして私を見るのですか?

「冗談だ」

 そう言って、いつものように、くしゃって髪を撫でてくれて。

「……相沢さん、女性の髪は気軽に触れて良い物では無いのですよ」
「そう思うなら、なぜ避けない」
「抵抗すると、ムキになってするじゃないですか。この間のように道端で抱きしめられては困ります」
「あれは俺も恥ずかしかったな」

 そう仰って、ようやく解放して下さいます。

「まぁ、帰ろうにも無理だからこの街に来たんだしな。少しずつ慣れて行くさ」
「そうですね」
「とりあえず、帰ったら雪下ろしだしな」
「はい?」
「いや、何、秋子さんがそろそろやらないといけないって言ってたからな。男手は俺一人だし」
「……ちょっと待って下さい? 確か、名雪さんは合宿でしたよね」
「ああ、距離スキーで体力づくりだって……」
「真琴も確か保育所のアルバイトで遅くなるはず。秋子さんは……」
「もちろん仕事だぞ」
「……相沢さん、お一人でされるつもりなんですか?」
「ああ、それがどうかしたのか?」

 はぁ、この人は……

「相沢さんは、雪を甘く見過ぎです」



「なぁ、天野……」
「何ですか?」
「いや、いくら何でも、女の子に力仕事を手伝ってもらうのはなぁ」

 そう言われましても、雪かきもろくにしたことのない方に、雪下ろしをさせるなど、無謀以外の何物でもありません。
 と、言いますか……?

「……女の子、ですか?」

 酷く聞き慣れない言葉を耳にしたようで聞き返すと、相沢さん、本当に憮然とした表情をされて。

「そこまで素で不思議そうに聞き返されると、本当に極悪人になった気がするな……」

 どうして、そんな申し訳なさそうな顔をされるのか、分からなくて。

「いいから、スコップをよこせ。天野は指示を出してくれるだけでいいから」
「あ……」

 言われるままにスコップを渡してしまったのは、何故なのでしょう?

 でも……


「相沢さん、高いところは苦手だったのでは?」


「ぐぁ……」



 と言うわけで、

「ですから分担です。雪下ろしって、屋根から雪を下ろす作業自体はそんなに力は使わないんですよ。重力に従うだけですから」
「でも危ないだろ。もし落ちたら……」
「下は、屋根から落ちた雪が厚く積もってるわけですから、大丈夫ですよ」

 ……これは半分はウソです。
 屋根の雪は、昼間、少しずつ融けて滴となって下に落ちます。
 そしてまた冷やされ氷となるわけで、屋根の下の雪はがちがちに固まった凶器となっているのです。
 雪国では一冬に何人もの人が、雪下ろし中に落ちて怪我をしている訳で。
 でも、こうやってウソでもつかないと相沢さん、納得してくれませんから。

「それに、雪止めがありますから、大丈夫ですよ」
「雪止め?」

 屋根の上に配置された突起です。
 雪国の家の屋根には大抵これが付いています。
 これを足場にすれば、問題無いでしょう。

「何でこんなものが付いてるんだ? 自然に落ちるのに任せれば、雪下ろしなんてしなくてもいいんだろ?」
「これが無いと、一気に雪が落ちてしまうんですよ」

 屋根の上の雪は、少しずつ溶けたり凍ったりを繰り返し、表面上はともかく、下は氷の板になっています。
 これが一気に落ちると、弾けて飛び散った氷の固まりが窓ガラスを割ったり、大変なことになるのです。

「ですから、自然に落ちるに任せるにしても、雪止めで割れるようにして、一気に落ちないようにするわけです」
「なるほど…… 雪国の知恵ってやつか」
「それではそういうことで、落とした雪の始末はお願いしますね」
「むぅ……」


 2階のベランダの柵を乗り越え、屋根の上に慎重に足を踏み出します。
 下では、相沢さんが固唾を飲んで見守ってくれているのでしょう。

 本当は……
 私のしてること、相沢さんのトラウマに触れてるってこと理解しています。
 子供の頃に体験したあゆさんの事故。
 記憶を閉ざしてしまうほどの思いをして。

 だから、絶対に落ちるわけには行かないのです。
 高さに足がすくむなんて、以ての外。

 ふっと意識を空にします。
 馴染みのある、そして久しぶりの鉛色の感覚。

 ……ワタシハ、ナニモカンジナイ

 あの子を失って、そうしていつの間にか身に着けていた、一時的に感情を透明にする方法。
 自己暗示、とでも言うのでしょうか?
 そうすると、高さに対する恐怖も、気負いも遠いものになって行って。

 相沢さんと知り合って、真琴と出会って。
 もう二度と、使わないと思っていた、使うまいと思っていた。
 それを、相沢さんの為に使うのですから皮肉なもの……

 いえ、本当は分かっています。
 相沢さんの為だからできる。
 相沢さんの為だからするのだと言うこと。

 ともあれ、こうなった私は自動的です。
 機械的に、そして慎重に屋根の雪にスコップを入れて、割り落として行きます。
 傾斜の加減が絶妙で、ほとんど力を使わなくても勝手に端から落ちて行きますね。
 ……さすがは、あの秋子さんのお家ということでしょうか?



「天野……」

 ぜいぜいと、肩で息をしながら雪に突き立てたスノーダンプにもたれる相沢さん。
 ちなみにスノーダンプというのは、ブルドーザーのシャベルを小さくした上に持ち手を付けたような物で、これで雪をかき、運ぶことができるものです。

「少しは手伝ってくれ……」

 恨めしそうに言う相沢さんに、澄まし顔を作って答えます。

「ですから分担と言ったはずです。私は雪を下ろす係。相沢さんは下ろした雪を捨てに行く係」

 本当は手伝ってもよろしいのですが……
 相沢さんの引け目を無くすためにも、私は「楽をするためにそちらを選んだ」ことにしなければなりませんから。

「……それにしても」

 あの状態になった私は、しばらく感覚が元に戻らないはずなのですが、「おつかれ」の一言と共に頭を撫でるだけで、うち消してしまうのですから、この人は……

 こみ上げてくる何かを誤魔化すように、会話を続けます。

「頑張って下さい。雪下ろしは屋根から下ろすより、下ろした雪の始末の方が大変だと分かれば一人前という話もありますし」
「一人前って、何のだ」
「もちろん、雪国の人間として、ってことです」
「ぐぅ……」

 悔しそうに唸る相沢さんの様子が何ともおかしくて。
 くすりと笑ってこう呼びかけます。


「改めて、この雪国にようこそ相沢さん。白い妖精達と共に歓迎いたしますね」



HAPPY END



■ライナーノーツ

 雪国、秋田の出身者として「実際の北の大地はこんな冬です」というような感じで書いたものです。

 美汐が言っているスノトレとは、こんなものです。


 また、祐一が使っていたスノーダンプというのはこれです。
 どちらも雪国の人間でないと知らないものですね。

 本当、雪かきさえ無ければ、風情があっていいものなんですけどね。

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