月姫 琥珀SS

 甘すぎる痛み



「済みませんね、琥珀さん」
「いえ、今、お茶をお持ちしますね−」

 久しぶりに遠野邸を訪れたシエルだったが、運悪く志貴は不在。

「一時間ほどしたら戻られると思いますので、お待ちになったらどうですか?」

 という琥珀の勧めに従って、応接間の方に通されていた。

「秋葉さんは、今日は……」

 いつもなら志貴が現れるより前に、嫌みの一つでも言いに来る秋葉が、今日に限って姿を見せない。
 不思議に思って尋ねると、

「秋葉様はご用事がありまして、翡翠ちゃんを連れて出かけてるんですよー」
「そうですか……」

 にこやかに答える琥珀に、少しばつの悪そうな顔をするシエル。
 ……全部、見透かされてるんでしょうね。
 この屈託のない笑顔の影に隠されている琥珀の本質、遠野家の影の支配者とも言える彼女の素顔をシエルは知っている。

「ですから、私も独りで寂しくて」

 そう言ってにこやかに差し出すお茶の中に、平気で薬品を混ぜたりできる人物だと。
 だから、シエルは言う。

「そうですか。なら、少し話し相手になってくれませんか?」
「はい、シエルさんなら、そう言ってくださると思いました」

 最初から用意してあったもう一つのカップにお茶を注ぐ琥珀。
 無論、カップの方に薬物が塗られている可能性だってあるし、同じティーポットから注がれたお茶だからといって無条件に安心できるというわけでもないが、この辺は軽い駆け引きの内だ。

 ……結局、私も同類ということですね。

 内心、嘆息するシエル。
 でも同類だからこそ、想像できてしまう。
 凄惨な過去を持ち、苦痛に倦んだ人生を歩んできた自分……
 その自分に近い精神を持つ、琥珀という女性の過去がどんなものであったのかを。
 そんなことを考えつつ琥珀の方に視線を戻したシエルは、しかし怪訝な表情を浮かべた。

「……琥珀さん?」
「はい?」

 自分の首筋を指差してシエルは問う。

「首の所の痣……どうされたんですか?」

 ファンデーションで目立たないようにしてあったが、元の肌が白くきめ細かなこともあって隠し通せるような物ではないし、何よりシエルの目は欺けない。

「っ!?」

 次の瞬間の琥珀の顔は見物だった。
 慌てて首筋を押さえたかと思うと顔を真っ赤にする。
 いつもの和服姿だけに、首筋まで赤く染めているのが見て取れた。
 ただ復讐だけを目的に生きていた以前の琥珀……
 笑顔以外の表情を持たなかった、虚ろな人形には絶対にできなかった顔。

 それで、シエルには分かった。

「遠野君ですか……」



 琥珀と志貴の間柄は、シエルも志貴本人から聞かされていた。
 と言うより、一方的にのろけられていたと言った方が正しいだろう。

 ……私も遠野君のこと、気に入っていたんですけどね。

 そう思いつつも、不思議と悪い気はしなかった。
 自分では志貴には不釣り合いだろうし、何より自分に近い心を持つ琥珀を志貴が選んでくれたことで、自分まで癒されるような気がしたのだ。

 ……遠野君は、私を不死の宿命から解放してくれましたし、これ以上望むのは分不相応というものでしょう。

 そう、自分を納得させたものだったが……



「遠野君も、やりますねぇ……」

 それが、素直な感想だった。
 首筋へ、跡が残るほどのキス。
 それはやはり、他者へ見せつけるための行為だろう。
 のほほんとした普段の志貴からは想像できない一面を見たような気がして、正直、あっけにとられてしまった。

「シエルさん……」

 少し、非難めいた琥珀の声。
 それも、シエルには意外だった。
 普段の琥珀だったら、

「あは〜、志貴さんってケダモノなんですよ。昨日の晩も……」

 ぐらい言ってのけるはずなのに。

「志貴さんったら酷いんですよー」

 出てくるのは子供のようにふてくされた声。
 ……ちょっと可愛い。

「酷い…… 遠野君がですか?」

 シエルには今ひとつ、ぴんと来ない。
 直死の魔眼を持つ志貴だったが、その壮絶な力がふるわれるのは、あくまでも非常の時だけ。
 いつもの彼を言うなら人畜無害という言葉がぴったりと来る人物に、酷いとはどういうことなのか?

「聞いてください……」



 あの事件の後、琥珀は遠野の家を出て、人生をやり直すことを決めていた。
 彼女にとっては辛い思い出しかないこの遠野邸に留まり続けることは良いことではないだろうという周囲の配慮であったが、琥珀がそれに同意したのは、一度、志貴から離れて自分を見つめ直したいという想いがあったからであった。

 しかし、である。
 彼女が新たに世話になる家に祟り神の話が伝わっていることを聞きつけた志貴が、琥珀の身に何かあったら大変とばかりに単身乗り込んできて当たるを幸いに直死の魔眼で一蹴してしまったのだ。
 長年苦しめられてきた呪いから解放された相手の家では、当然志貴を神様のように歓迎した。
 その歓待ぶりに困惑した志貴は、皆の前で少し照れくさそうな顔をしながら言ってくれたのだ。

「別に、そんな立派なことを考えてた訳じゃなくて…… 俺はただ、遠くに居る琥珀さんのことが心配だったから……」

 皆の前で、英雄様にそこまで言われては琥珀に逃げ場は無い。
 結局、志貴と共に盛大に見送られ、遠野の家に逆戻りせざるを得なかったのだ。



「天然ですからねぇ、遠野君」

 嘆息するシエル。
 これが、志貴が計算づく…… それが恋人を愛するがゆえに呼び戻そうとしている場合であっても…… で動いているなら、まだ対処のしようがある。
 だが志貴は、純粋に琥珀を心配して動いただけなのだ。

「それだけじゃないんですよー」



 遠野邸に帰ってきた琥珀だったが、半ば強制的に連れ戻される形になった以上、胸にわだかまりが残ることになった。
 それを志貴が心配するから話がまたややこしくなるのだが。
 ともかく志貴といったん距離を置こうとする琥珀と、それを心配する志貴の追いかけっこは深く静かにエスカレートし、ついには琥珀が双子の姉妹である翡翠に入れ替わりを頼む始末であった。
 しかし、

「………」
「どうしました、志貴様」
「……何やってるの、琥珀さん」
「(!?) ……姉がどうかしましたか?」
「姉がって…… 琥珀さんでしょ。翡翠の真似なんかして、どうしたの?」

 志貴は一目で見破ってしまったのだ。
 翡翠に化けた琥珀を。
 無論、琥珀のすることだから演技は完璧。
 志貴が直死の魔眼を使ったわけでもない。
 それなのに、志貴は見破ってしまったのだ。

 ……これが愛の力というものなんでしょうか?

 バカな単語が脳裏をかすめたが、とにかく自分の演技に絶対の自信を持っている琥珀はあくまでもしらを切る。

「どうしてそんなことを言われるんです? 私達姉妹は確かにそっくりですが……」
「……そんなはずないんだけどなぁ」

 そう言う志貴に、何とか丸め込めたと思ったその時。

「それじゃあ、間違わないように印を付けなきゃね」

 そう言って、志貴は琥珀を抱きしめてきたのだ。
 そして、首筋にキス……



「それ以来、毎日付けられてるんです」
「はぁ……」

 何とも壮絶な話である。
 これが二人っきりで生活しているならまだ話は分かるが、この遠野邸には秋葉と翡翠だって居るのだ。
 かたや義兄である志貴への想いを捨てきれない義妹。
 かたや姉に恋人ができたことを喜びながらも一抹の寂しさを感じている双子の妹。

「のろけられてると思っている秋葉様は話を聞いてもくださいませんし、翡翠ちゃんはこれを意識する度に真っ赤になってお話しどころじゃなくなりますし。何より志貴さんには全くそういう自覚はありませんから平然とされてますし」

 よほど身に染みて応えているのだろう、らしくもなく弱音を吐く琥珀。

「でも、そこで止めておけば、まだ良かったんです」

 ぽつりと呟いて琥珀は立ち上がると、和服の帯を緩め出した。

「意地を張って、翡翠ちゃんにもキスマークを付けて誤魔化そうとしたんですが……」
「琥珀さん? いったい……」

 何を、と言いかけるシエルの目の前で、琥珀は胸元を開いて見せる。
 ずっと遠野の家で働いてきた琥珀の肌は雪の様に白く…… その肌に散らされた朱色の跡は、いっそ鮮やかでさえあった。

「そうしたら志貴さん、それじゃあ、これならって……」

 琥珀の胸に点々と刻まれた…… キスマーク。

「これならって琥珀さん…… まさか、これを?」
「………(こくん)」

 ……それは、これなら確かに誤魔化せないかもしれませんが、遠野君、一体何を考えてるんですか?

「……ひょっとして毎日?」
「………(こくん)」

 ……何も考えてないんでしょうねぇ。

「それで、この身体をお風呂に入るときに翡翠ちゃんに見られて、あまつさえ騒ぎを聞きつけてやってきた秋葉様にまで」
「はい?」
「一緒にやってきた志貴さんは錯乱した秋葉様が投げつけた桶に直撃を受けて無責任にも気絶しちゃいますし、翡翠ちゃんは真っ赤になったまま動かなくなるし」
「………」
「それ以来、この家では私が何を言っても、のろけてるとしか受け取ってもらえないんですよ〜」
「……はぁ」


「大体、志貴さんは酷いんです。夜だって……」

 今までよほどため込んできていたのか、シエルという話し相手を得た琥珀の愚痴は止まることを知らない。

「シエルさんは、私が感応能力者だってことはご存じでしたね」
「ええまぁ」

 そう答えつつも、シエルは思う。

「まさか……」

 感応能力者は、体液を交換した相手と否応なく生命力を共有することになる。
 それに対して志貴は直死の魔眼を持つ反面、生命力は極端に弱い。
 志貴にとっては感応能力者である琥珀との交わりは好ましいことだが、琥珀にとっては負担を強いることになる。
 感応能力者であるゆえに、辛い過去を負うことになった琥珀。
 志貴も十分それを分かっているはずなのだが……

「まさか、琥珀さん……」
「そうなんです。志貴さんったら初めての時以来、全然入れてくれないんですよ〜!」
「は?」
「体液の交換が成される行為は一切禁止で、私さえ気持ちよくなってくれればいいからって」
「はぁ……」

 今ここに秋葉が居たら、本気で怒り出していただろう。
 シエルにしても、逆の心配をしていただけに脱力することこの上無い。

 ……まぁ、あの遠野君に限ってそんなことはありえませんでしたか。

 しかし……

「あんな自分の欲望抜きで、ひたすら優しくされて、どれだけ切なくなっても触れるだけのキスしか与えられないのが、どんなに…… どんなに……」
「琥珀さん……」

 ……ああそうなのだ。
 シエルは唐突に理解した。
 彼女は、怖いのだ。
 志貴が…… あまりに優しいから。
 一度その優しさに浸ってしまったら、もう二度と逃れられない。
 それが分かっているから、滑稽なまでに必死に抵抗しているのだ。
 志貴の優しさを素直に受け止めることこそ最善なのだと自分自身、気づいていても。

 でも……
 多分、自分も彼女の立場に置かれたら同じ事をするのだろうな、と思ってシエルは自嘲する。
 いや、もうしているのか。
 自分に似た琥珀が選ばれたということで、自らを納得させている。

 ……それにしても、こんな彼女に純粋に善意でそんな真似するなんて、いい人って怖いですねぇ。

「聞いてますか、シエルさん」

 不満げに訴える琥珀に、この人もこんな表情ができるのかと思いつつシエルは答える。

「ええ、私も色々と経験してきましたが……」

 子供のように頬をふくらませる琥珀は失われた幼い日を今、取り戻そうとしているかのようで。

「ここまで甘く、壮絶な拷問は初めて聞きましたよ」

 シエルの溜息混じりの呟きは、どこか暖かなものであった。


 ……他人から見たら、やはりのろけてるとしか思えないでしょうけど。



 HAPPY END



■ライナーノーツ

 このお話は、春日晶さんのサイト『大自然の部屋』に贈らせて頂いたものです。
 それにしても、月姫リメイク、いつになるんでしょうねぇ。

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