この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
「怖い話、ですか?」
「そうだな…… 雨の日の国道をスクーターで走っていた時に、いきなり対向車が右折してきたのは怖かったぞ」
「あぅ?」
「60キロぐらい出してたからな。とっさにブレーキをかけたんだが、止まりきれずに、そのまま滑って行って……」
「よくご無事でしたね」
「ああ、滑りながらも減速してたからな。勢いが衰えると車体が倒れ込んでくるから、最後は引きずられないように手を離して、そのままアスファルトの上をごろごろと」
「そうですね。よく上手な人は転倒してもバイクと身体が離れないと言いますが、それはぎりぎりまで車体をコントロールして、ダメージを減らせるという意味ですから。本当に最後まで離れないでいると、車体に引きずられたり、足をはさまれたりするので危険です」
「うぐぅ」
「受け身の大切さを知ったぞ」
「知り合いに聞いたのですが、少林寺拳法を習っておくといいみたいですね」
「柔道じゃないのか?」
「畳の上でする柔道と違って、少林寺拳法は板の間をごろごろと転がって受け身を練習しますから、より実戦的です。それに柔道式の…… あの、バシンと地面を打つ受け身をアスファルトの上でやりたいと思いますか?」
「それもそうか」
「えぅ〜っ、自分達だけで盛り上がってる祐一さんなんて、キライですっ!」
「栞?」
「栞さん?」
「怖い話と言ったら、怪談に決まってますっ!!」
美汐のスクーター日記
『怖い話』
「よく分からないわね。何でそんな楽しそうに転んだ時の話ができるのかしら?」
呆れた表情で言われるのは、香里先輩。
「まぁ、ライダーの性ってやつだ。要するに、とんでもない目に遭ったけど、それをどんな風に乗り越えたかってことを、話したいんだな」
「ふぅん……」
相沢さんの説明にも、納得しかねると言ったご様子です。
確かに、これは経験が無い人には分かりづらいかも知れませんね。
それに、香里先輩からしてみれば、スクーターに乗りたがる栞さんのことを思うと心中穏やかでは居られないでしょうし。
ですから、
「スクーターに限らず、乗り物には危険はつきものです。でも注意していれば防げるものもありますし、こうやって体験を共有すれば、それだけ安全に気を配ることができますから」
さりげなく、相沢さんに水を向けます。
この辺の機微には敏感な相沢さん。
すぐに私の意図を、そして香里先輩の不安を察して下さいました。
「ん、ああ、そうだな。酷い目に遭うと次からは身に染みて警戒するようになるし、実際、他のライダーの体験談は参考になるしな」
「……そう」
仕方ないわね、といった表情の香里先輩。
私達の意図も見透かされているのでしょう、苦笑の影があります。
それを見て不思議そうにする栞さんの表情が、妙に印象的でした。
「天野もあるだろ、そんな話」
ばつが悪そうに、私に話を振る相沢さん。
少し、考えてから答えます。
「そうですね…… 転倒には至りませんでしたが、工事車両が落として行ったのでしょう。直径5センチはある区画整理用のバーが、ブラインドコーナーを抜けたとたん、転がっていたのは怖かったですね」
あれには本当に驚きました。
「とっさに腰を浮かして、膝でショックを吸収することができたので、何とかなりましたが。普通の人だったら転んでますよ」
「……という具合に、いかにしてそれを切り抜けたかを、語りたいということもあるし」
相沢さん……
「……自分で話を振っておいて、そんな酷なことはないでしょう」
せっかく『それ以降、先が見えないカーブでは、何かあっても対処できるよう身構えるようになった』と話を繋げようと思っていたのに台無しです。
私が睨むと相沢さん、誤魔化すように話し出されました。
「交差点で左折車に巻き込まれたこともあったなぁ。珍しく飛ばさずに前の車に合わせて安全運転してたら、何を考えたか交差点間際で追い越そうとしてくる車があって」
スクーターは軽く見られることから、無理な追い越しをかけてくる車もたまに居ます。
「やばそうだと思ったら、いきなり左折しやがって」
「祐一さん、よくご無事でしたね〜」
倉田先輩が、心配そうに言われます。
「スピード出てなかったし。アスファルトに投げ出されたけど、とっさに前転して勢いを殺したんで、怪我もなかった」
「相手の人も、びっくりしたんじゃ」
相手の心配までされるのは、名雪さん。
でも……
「逃げられた」
「えっ?」
「相手の車、そのまま逃げちまってな」
「そんな……」
「ぽんぽこたぬきさん!」
「ひどいよっ!」
「あぅー、許せない!」
口々に言われるみなさん。
「まぁ、腹も立ったけど、無傷で済んだしな。相手の車は確実に傷ついたろうから、向こうの修理代はかなり高く付いたろうし、逃げたからにはこちらが無事だと分からないから、しばらくは犯罪者気分だったろうし」
そうして、意地悪く笑います。
本当に、この人は……
「もちろん、怪我したこともあったな。一番酷かったのは、コーナーでの自爆だったけど」
「えぅ……」
「スクーターって、グリップの限界を超えると、タイヤの滑り出しを感じる間もなく一気にスコーンと抜けるのな」
まぁ、その傾向は強いですね。
路面の状況やタイヤの種類にもよりますが。
「何が失敗だったって、タイトなジーンズを履いていたのが失敗だったぞ」
「ジーンズは頑丈ですが、伸縮性がありませんからね」
そのせいで事故時には皮膚が引き攣れることがあり、あまり保護にはなりません。
「いや、そういうこともあるけど、裾をまくれないのがまずいんだよ。傷口が看れないから」
はい?
「まさか、道端でベルトを外して下ろすわけにもいかないだろ。結局、家に帰り着くまでそのままで。ジーンズ履いてコケると、布地は無事に見えても、下の皮膚が傷だらけになってるんだな。道理でやけに痛むと思ったよ」
それ以来、スクーターに乗るときには、ジーンズは履いていないと笑う相沢さん。
「でもコケる瞬間って、自分でも意外に思うほど冷静なんだよな。もっと頭が真っ白になるかと思ったんだけど、そうじゃなくて」
それは…… 確かにそうですね。
「コケた後も『時速60キロでコケても、上手く対処できれば掠り傷程度で済むんだなぁ』とか図太いこと考えてるし、冷静に自分の身体と車体をチェックしてるし」
「やはり、それも経験なんだと思いますよ。一番最初の時は、相沢さんだってそんなに冷静には対処できなかったんじゃないですか?」
「……そうかもしれんな」
相沢さんと二人、それぞれに一番最初に転んだ時のことを思い起こします。
そうしていると……
「……恐怖心は、誰にでもある。身体がすくんで思うように動けないことも」
川澄先輩?
「でも、軽い怪我で済んだ経験があれば、そういうものだと身体が納得するから、次からは冷静に動くことが出来る」
そう言われる川澄先輩は、いつものクールフェイスで。
その美しい容姿と相まって、どこか触れがたい雰囲気がありました。
「……お前が言うと、説得力あるな」
半分呆れ気味の相沢さんの声。
それが、場の雰囲気を元に戻します。
「何事も経験って奴だな。ただ、だからと言って、危険を軽視するわけじゃないぞ。ヘルメットを擦るような事故を経験すれば、そのありがたみが身に染みて分かるから、最低でもジェットを使うようにするし、あみだや亀の子なんか論外、あご紐もきっちり締めるようになる」
「そして、こういう生の体験が聞ければ、経験の無い方も気を付けるようになる。体験談というのは、結構意義のあることなんですね」
この辺は、みなさんに誤解がないよう、重ねて言っておきます。
そしてその後も、
「擦り傷の手当には、大判の『キズパワーパッド』があると便利」
とか、
「最後の手段として、JAFの電話番号ぐらい、控えて置いた方が良い」
とか、
「雨の日のグレーチング(側溝に被せられた金属製格子のこと)は滑る」
など、お話は続き……
「えぅ、怪談をするはずだったのに……」
……今更ですね。
To be continued
■ライナーノーツ
スクーターでの事故時は広範囲に擦り傷を作るのででっかい『キズパワーパッド』があると便利ですね。
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