この物語はフィクションであり、登場する人物・地名・団体名はすべて架空のものです。
バイクの運転は交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
「美汐ーっ!」
縁側でレインコートを畳んでいると、不意に名前を呼ばれました。
この声は……
「真琴?」
顔を上げると、裏庭の木戸を開けて真琴が入ってくるところでした。
「こんにちは、真琴」
「あぅ、こんにちは」
真琴はいつも元気ですね。
そして、真琴に少し遅れていらっしゃったのは……
「よう、天野」
「こんにちは、相沢さん。どうされたんですか?」
「いや、ツーリングのお土産、みんなで買って帰ったろ。お礼にって秋子さんが」
「そんな、わざわざ済みません」
最中ですか……
秋子さんのことですから、これも手作りなんでしょうね。
「待っていて下さい。今お茶を入れて来ますから」
「おう」
美汐のスクーター日記
『雨の後は』
縁側で、お茶を飲みながら最中をいただきます。
もっさりとした感じのない、パリパリの皮がよろしいですね。
餡が詰めたてだと、皮が水分を吸わないのでこんな風においしくいただけるというお話でしたが。
「……やはり秋子さんの手作りですか?」
「ああ、どこだか有名な和菓子屋のものを真似してみたって言ってた」
「そうですか……」
相変わらず凄い方です。
「美汐、何やってたの?」
真琴の目線の先には、先ほど畳んでいたレインコートや、グローブ、ヘルメット等があります。
そう言えば、片づけの途中でしたね。
「グローブや雨具の手入れですよ」
「手入れ?」
「はい。雨に濡れたら忘れずにしないといけません」
水気を切り、汚れを落として陰干しに。
乾いたら、皮の部分には保革油を。
繊維部分には撥水スプレーを吹きます。
特にゴアテックスは手入れを怠ると、自慢の防水・透湿性がみるみる内に落ちてしまい、ゴアテックスでも何でもなくなってしまいますから。
専用の汚れ落としやコーティングのスプレーが欠かせません。
「でも、天野のカッパ、ゴアテックスじゃないんだよな」
「そうですが、それが?」
私はブーツ以外、ゴアテックス製品は使っていません。
「いや、天野のタイプだと、高価くてもいい物を長くって感じじゃないか」
「……それは、暗に私がおばさんくさいと言っているのですか?」
「いっ、いや、考えすぎだぞ天野。本当のおばさんだったらコンビニのビニールガッパだろ」
「そうですか?」
「そうだ」
ふぅ……
私がこういう反応をしてしまうのも、ご自分の日頃の行いのせいだということを自覚していただきたいものです。
「スクーターでは、あまりゴアテックスの必要性を感じないものですから」
ゴアテックスは、雨は通さないのに、通気性を持つという便利な素材です。
少々お値段は張りますが蒸れないため、最近では登山やバイクのウェアに多用されています。
でも、
「登山と違って、スクーターでは汗をかきませんから。ゴアテックスでなくとも、背中に開いたベンチレーターとか、メッシュの裏地とか、造りで十分カバーできます」
運動量は少ないですし、常時雨と風に冷却されている状態ですから汗のかきようが無いですよね。
まぁ、蒸れに関しては、密閉性の高いセパレート型ではなく、ロングコート型を使っているからということもありますが。
「それに、いくらゴアテックスといっても、スクーターに乗って長い間雨に打たれてしまうと結局最後には染み込んでしまいますから」
走行中は常に強風下で雨に叩きつけられているような状態ですから、その辺が登山等とは違うところです。
そんなわけで、私はあまりゴアテックスの持つ耐候性には期待しないことにしています。
「ねぇ、美汐、これは?」
「ああ、それは……」
真琴が興味を持ったのは……
「バイザーのコート剤だな」
「コート?」
「ええ、これをヘルメットのバイザーに塗ると、水滴が付きにくくなるんです」
正確に言いますと、水滴を弾き、流れやすくするものです。
雨の日はただでさえ視界が悪くなりますからね。
「昼とかならまだいいんだが、暗くなってくると最悪だからな」
苦笑しながら言われる相沢さん。
どうやらご経験があるようですね。
「そうですね。バイザーに付いた水滴にライトの光が乱反射して、危険ですから」
あれは最悪です。
酷いときには、視界のほとんどが光の洪水で塞がれてしまいますから。
「綺麗ではあるんですけどね。運転中は命に関わりますから」
気を付けなくてはいけません。
「あぅ、めんどくさい」
つまらなそうに呟く真琴。
少々、難しい話が続き、退屈させてしまったようです。
「そうですか?」
「違うの?」
「どちらかというと、道具の手入れも楽しみの内ですから」
「ふ〜ん?」
真琴には、まだ分からないでしょうか?
「道具には、色々な思い出が詰まっていますから。手入れをしながら思い起こすのも楽しいものなんですよ」
レインコートを畳みながら真琴に答えます。
「あぅ?」
「そうですね、例えば今回のツーリングは雨に降られて大変だったけど面白かったなぁ、とか。雨宿りしたドライブインのアイス、おいしかったですよね」
「うんっ」
少々のトラブルは、思い出を演出するスパイスのようなものです。
「あゆのエンジンブレーキには笑わせてもらった、とか?」
「……相沢さん」
そういう過剰なスパイスは遠慮したいです。
ラーメン屋さんで、テーブル胡椒の内蓋を外しておくようなものじゃないですか。
実際にやって、栞さんに人類の敵呼ばわりされた挙げ句、アイスクリームを山ほど奢らされていたというのに。
この人は懲りるということがないのでしょうか?
「どうした天野、ため息なんかついて、おばさんくさ……」
……ないんでしょうね。
「あぅ?」
To be continued
■ライナーノーツ
私は以前、日本でも有数の豪雨地帯に住んでおりました。
具体的に言うと三重県尾鷲市。
集中豪雨かと思うほどの雨が普通に降る地方でして、この雨の前では、ゴアテックスなどまさに無駄無駄無駄。
結局、ゴム引きの合羽が一番という有様でして、美汐がゴアテックスを信用していないのは、こんな私の経験から来ています。
大体、ゴアテックスは高価いので、1コケ、1擦りで数万円がパァになるのもどうかと思いますし。
(コケなければいいようなものですが、豪雨の中の峠は難易度倍増なので。ズリズリと尻の下で滑り出すリアタイヤの感触と言ったらもう!)
なお、お手入れに使う撥水スプレーですが、フッ素樹脂系の、通気性を損なわないものを使いましょう。
シリコンスプレーは通気性がなくなってしまうので使用禁止、特にゴアテックスに使うと一発で駄目になってしまうので注意です。