ドラクエ2〜雌犬王女と雄犬〜(現実→雄犬に憑依)
第一章 始まりの物語
彼がこの世界へやってきたのは、二十七歳の時。
社会人生活、五年目の夏のことだった。
別に事故に遭って死んだ訳でもなく、階段から落ちた訳でもなく、召喚の門なんてファンタスティックな誘いがあった訳でもない。
会社に行く途中、地下鉄に乗っていて貧血のような眩暈を覚え、意識が真っ暗になったかと思うと、次に目が覚めた時は中世ヨーロッパみたいな見知らぬ異世界。
その上、自分は犬になっていた。
「畜生道に落とされるような真似をした覚えは無いんだがなー」
そう思うが、現実は現実。
そこからが大変だった。
生き抜くために生ゴミまであさり、人間には石を投げられ、餌場をめぐって他の野良犬と壮絶なバトルを行った。
幸い生まれ変わった身体の体格が良かった事と、
「元人間、元社会人を舐めんな!」
と意地で死に物狂いに立ち向かっていったのが功を奏したのか、半年ほど経った時には、この界隈ではボス犬として君臨することとなっていた。
そんな日々の中で、この白い小さな犬と出会ったのだ。
「とにかく、身体を洗って、毛並みを整えて」
水場に連れて行き、おっかなびっくりな彼女と共に、身体を水に浸す。
幸いにして、お互い短毛種。
ぶるるっと体を震わせるだけで水気を切ることができる。
ケアは簡単だった。
「あ、あの、さっきの……」
「ん?」
「その、俺の女だって」
「ああ、そう言う事にしておけば、この近辺の犬達は、手出しできないからな」
「は、はい。ふつつか者ですが、よろしくお願いします。犬の生活はまだ慣れませんけど、きっと覚えます」
妙に人間くさい彼女の言葉に首を傾げるが、彼はこの世界に飛ばされて覚えた、疑問を丸ごとうっちゃるという技を使って、それを心の中のゴミ箱に投げ込んだ。
うまく入らなかったが、その内、脳内メイドさんが片づけてくれるだろう。
この世界、普通にメイドが働いていたりするし。
とにかく、
「まずは身ぎれいに。お前さんは頭良さそうだし、可愛いから人懐っこく甘えたり芸をしたりして人間から餌をねだるといいだろう」
「か、可愛いですか?」
照れているらしい。
変な子犬だった。
「とりあえずは、俺のねぐらに連れてって、メシおごってやるよ。その様子じゃ、野良になりたてだろ」
「は、はいっ」
彼が連れて行ったのは、この時間でも明かりが灯っている酒場兼宿屋。
名を、月明かり亭と言った。
「リュー、散歩は終わったのか?」
彼に話しかけたのは、この月明かり亭の亭主。
「あ、リューさんって言うんですか?」
「まぁな、ご亭主が名付けてくれた」
この世界の情報を得るという意味もあって酒場の周りをうろついていた彼を、大きくて大人しいからという理由で拾ってくれた恩人。
以来、彼は用心棒代わりに酒場の隅で聞き耳を立てながら静かに暮らす身分を手に入れた。
「おや、可愛らしい彼女を連れてるな」
目ざとく彼の連れている子犬を見つけて、笑いかける亭主。
「か、彼女なんて…… その通りですけど」
「……とにかく、メシだ。酒場の客の食い残しだけどな」
これがいつもの彼の食事。
まぁ、彼の元の世界でも、高級料亭で客の食べ残しを使いまわしていたという事例があり、気にはならなかった。
彼がその時代では珍しい、もったいないという感性の持ち主であった事も、理由に挙げられるが。
「それじゃ済みませんが、いただきます」
おずおずと食べ始める彼女。
彼…… リューも同じ皿に鼻面を突っ込んで食べる。
「ひ、一つの食器の食べ物を二人で一緒に食べるなんて、私初めてです」
「そうか」
「こ、これが夫婦って事なんですね」
「……何だって?」
「い、いいえ、何でもないです」
つくづく変な犬だった。
「とりあえず、食ったら寝るぞ」
「は、はい、あの、は、初めてなので優しく…… お願いします」
「ん? ああ……」
他の犬と一緒に寝るのが初めてなんて、箱入りのお嬢さん犬だったんだな、などと思いつつ、彼は頷いたのだった。
満月が中天にさしかかる頃、彼はイトスギの森の中の開けた場所、そこに立ち並ぶ石柱の中で、地面を掘り返していた。
出て来たのは、あらかじめ埋めて隠して置いた、周囲にルーンが刻まれた金属製の鏡。
「ラーの鏡か……」
街の方々を彷徨い歩き、夜は酒場の片隅で客達の話に聞き耳を立てる。
時には荒野を渡り、他の町まで行って、探りを入れる。
更には魔族に滅ぼされた城に潜り込んで幽霊の話を聞く。
そうしてようやく手に入れた情報。
月の光で真実を映し出すという魔法の鏡。
それを使えば、姿が変えられた者の呪いが解けるという。
犬の身で断片的な情報を継ぎ合わせ、ようやく手に入れた金属製の鏡は、なるほど魔法の鏡と言われるだけあって、錆びもせずにそこにあった。
後は、儀式の条件。
石柱があること、満月が中天にあること。
これが、今宵、この時間に満たされようとしていた。
前肢を牙で傷付け、鏡の外側に刻まれたルーンに血を塗り込んでいく。
雲が切れ、月光を鏡が反射して円形の光で彼、リューの姿を照らし出した。
魔鏡なのだろう、鏡の表面には無いはずのルーンが光の中に浮かび上がり、彼の背後に小柄な影を映し出した。
「何!?」
思わず振り返るリュー。
そこには彼が助けた白い子犬が居た。
その体が鏡の光を受け、光っている。
「まさか!」
もう一度鏡を見る。
そこには、犬のままの自分に対して、うずくまり姿を変えていく白い犬の姿があった。
体毛がみるみる内に消え、代わりに髪が伸び、骨格が人間のそれへと変わっていく。
喉から漏れていた苦鳴が次第に人間味を帯び、もはや完全な五指を備えた前肢が地面を掻く。
華奢な手だった。
滑らかな白い肌、小さな肩が、荒い息に合わせて上下する度に、癖の無い艶やかな髪が細かく震えた。
女の子だ。
急に光が消えた。
天空の雲が満月を覆い隠し、周囲には夜の闇が戻っていた。
夜目の利く犬の目でもう一度見やった時、そこには子犬から変化した……
いや、犬に姿を変えられる呪いを解かれた少女の姿があった。
「わ、私……」
不思議そうに両手を握ったり開いたりして呆然と呟く。
「元の姿に戻れるなんて…… もうずっとあのままかと思っていたのに」
「呪いで、姿を変えられていたんだな」
簡素なデザインだが可愛らしい白のワンピース姿の少女に、思わず呟いたのだが、
「ああ、リューさん。そうなんです。私はムーンブルク王の娘マリア。ムーンブルク城は、大神官ハーゴンの軍団に襲われ…… 私は呪いで犬の姿に変えられて、ここに飛ばされたのです。でも、どうして呪いが……」
「元に戻っても、犬の言葉、分かるのか?」
「はい、覚えてるみたいで。リューさんも、人間の言葉、分かるんですね?」
人間の言葉で答える少女、マリアにリューは説明する。
「いや、変化の呪いを解く儀式をやってみたんだがな」
ラーの鏡に目をやると、それは魔力を使い果たしたらしく、もう粉々に砕け散っていた。
真実を映し出すこの鏡は、マリアの真の姿を映し出し呪いを打ち破った。
だが、そこに映し出された自分は、犬の姿のままだった。
つまり、この身体は最初から犬の物。
超常現象で犬にされたのではなく、この世界に来た時点で、魂が犬の体に入ってしまったということ。
魔術が現実にあるというこの世界で、さんざんあがいた結果がこれである。
どうやら犬として天寿を全うして、来世に期待するしか無さそうだった。
ともあれ、マリアに聞いてみる。
「これから、どうするつもりだ?」
「邪教を崇め、怪物を世に放つ大神官ハーゴンを、このままにはしておけませんが、私一人ではどうにもならないでしょう。でも、せめて父の仇。卑怯にも背後から不意を突いて襲ってきた悪魔神官だけは、私の手で倒したいのです」
「そうか、それじゃあ……」
リューは、地面を掘ると、次々に埋めて置いた物を取り出した。
「ここ掘れワンワンか。こいつらをやるよ」
「え、いいんですか?」
出て来たのは大判小判ではなく、金貨や銀貨、アクセサリーの類。
まぁ、財宝という点では、某昔話と同じ物だった。
「犬の視点だと、道端に落ちてる財布やコインがよく見つけられてな、それを貯めていた物だ」
人間に戻れた時の為に。
だが、
「俺にはもう不要な物だ。何をするにも元手が要るだろう? 俺の生きた証、受け取って欲しい」
「はい」
ためらいもせず、アクセサリーの中にあった、シンプルな指輪を手に取り、左の薬指にはめる彼女。
「は?」
異世界でも、何故か変わらぬその意味。
唖然としたものの、我に帰って慌てて止める。
「ちょ、ちょっと待て、その指にはめる意味、分かってやってるのか?」
「はい? 夫婦の証ですよね」
知識に無くて偶然はめただけであって欲しいという、彼の願いは砕け散った。
「何で……」
「だって、私はリューさんの女ですから」
白皙の頬を羞恥に染めて俯くその横顔は、幼いながらも女の物だった。
人間の頃から女性には疎かったリューには分からなかったが。
「雌犬に変えられ、貞操の危機にまで陥った私を拾って下さったのがリューさんです。ですから、私はリューさんのものなんです」
「いやだからって、俺は犬だぞ」
「関係無いです。それに伝承にも、家を救ってくれた飼い犬と夫婦になった貴族の息女のお話があります!」
「南総里見八犬伝かよ! いや、それも昔話だろ」
「あ、でも指輪の交換ができませんね…… そうです! お揃いの首輪を買いましょう! それを交換して」
「話を聞けってば! それにそれじゃあ、変な趣味の人だ!」
「いけませんか?」
しゅんとなる少女に、
「せめて君の分は、アクセサリーのチョーカーでお願いします」
彼は女子供には非常に弱かった。
「そうですね、この指輪と揃いの意匠のトップをお互いの首輪とチョーカーに付ければいいですね」
ぱっと笑顔を輝かせて言う少女に、リューは匙を投げた。
若い子の考える事は分からん……
もう精神年齢二十八歳のリューには、思春期の少女について行く気力が無かった。
若い子…… 見た目、十三から十五歳程度、自分の半分しか生きていない様子の少女である。
もっとも、中世ヨーロッパに近いこの世界では、女子は十三歳でも十分結婚が可能なのだが、それをまだ彼は知らなかった。
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ラーの鏡は真実の姿を映し出すというドラクエのキーアイテムですね。