「パンツァー・アンド・マジック」
第二章 旅立ち−2
次に大地はアウレーリアを引っ張り出す。
「途中の橋が無事で何よりであったな」
狭い車内から解放されたアウレーリアは、小さく伸びをしながらそう言った。
大地はまったくだとうなずく。
「チハは水密性が必要な下部は装甲板相互が溶接で貼り合わせてあるから、水深一メートルまでは渡河できるんだが……」
すべてを溶接で仕上げられていないのは、九七式中戦車チハが造られた当時の日本の技術力では十分な強度を与えることができなかったためだ。
一方、リベットによる接合では、リベットに敵弾が命中すると装甲が貫通されなくても衝撃で千切れたリベットが車内に飛散し、乗員を死傷させてしまう恐れがあった。
故にリベットで組み上げられた九七式中戦車チハの装甲は旧式であり、これが改められるには一式中戦車チヘの登場を待たなければならなかった。
「まぁ、渡河をやらずに済んだのは幸いだな」
そう上手く渡河地点が見つかる保証も無いことだし、渡り切っても川岸の土手は急傾斜が多い。
戦車であっても登り切れるかが問題だった。
「下手をすれば、川の中でエンジンが止まってしまって立ち往生するし、最悪流されて水没の恐れもある。牽引ワイヤーは積んでいるが、随伴車両が無いから引っ張ってもらうこともできんしな」
九七式中戦車チハには標準装備として車体後部に牽引ワイヤーが金具で固定されている。
他にも車載工具を収めた工具箱、ジャッキ、つるはし、円匙…… シャベルが車体の各部に固定されていた。
どれも万が一の場合には役立つ装備だが、出番が無いのが一番かも知れなかった。
大地は転輪に巻かれたゴムに手を当てて、熱が溜まっていないか確かめる。
「問題なしか」
「小休止のときも気にしておったな、何かあるのかえ?」
アウレーリアの問いに、大地は全部の転輪を調べながら答える。
「日本にはいい接着剤が無くてな、チハの転輪に巻かれたゴムは、中にワイヤーを通して固定しているんだ。これが長距離を走行すると熱を持ってゴムを溶かす場合がある。一応、溝を掘って空気を通したりと対策はしているんだが」
大地の言うとおり、転輪のゴムには縦溝が一本刻まれていた。
「チハの走行速度は本当は四十キロ以上出るんだが、三十八キロに制限されているのはこのためだって話だ」
それでも長距離の移動だ、気にして置いた方が良いだろう。
そして、アウレーリアの紫紺の瞳が、いいことを思いついたとでもいうように輝いた。
「それでは万が一のときに制限を解除すれば、素晴らしい機動力で起死回生の逆転が……」
「やるなよ。絶対やるなよ」
「兵は神速を貴ぶ。速さは天がくれた最後の奇跡と申すが」
「絶対駄目だ」
機械というのはある程度の余裕を持って造られているから、本来なら最高速度を少しばかり上回ったところで即座に壊れる訳は無い。
多少の危険性には目をつぶっても性能向上を、というのはロマンあふれる魅力的な選択肢だが…… 実際問題、普通に使っていてもよく壊れる戦車でやっていいことでは無かった。
武人の蛮用には到底耐えられないのだ。現実は非常である。
「とはいえ、気を使うといえば、これ以前の八九式中戦車よりはずっとましといえるがな」
「うん?」
首を傾げるアウレーリアに、大地は口の端を釣り上げて見せた。
「片側九個の小転輪を持っている八九式中戦車では、注油しなければならない箇所が足回りだけで九十カ所以上あってな。走行性能を十分に保つには、それに日常的に油を注さなければならなかったんだ」
「九十カ所!?」
アウレーリアは驚きの声を上げるが、この話にはまだ続きがあった。
「その上、八九式中戦車では、ほとんどの注油箇所がネジで締められていて、点検整備の際には一つずつ外してそれぞれの箇所に適合した油種を注油しなければならなかったんだ」
「気の遠くなるような話じゃな」
アウレーリアは呆れたように言った。
「ああ、だから当時の戦車兵たちは、戦場でも休む暇なく整備に追い回されることになったって話だ」
それに比べれば、整備性には天と地ほどの差があった。
「お昼には、お稲荷さんを作って来たんですよ」
楓はそう言って、竹皮に包まれた稲荷寿司を取り出して見せる。
無論、彼女の手によるものだから俵型ではなく、狐の耳を模したといわれる三角形のものだ。
「そりゃ助かる。普通、軍じゃ一合の握り飯二つで済ますところだからな」
「一合のお握りって、どれだけ大きいんですか」
楓が呆れたように言うが、日本陸軍の野戦食はそうなっているのだから仕方が無い。
「軍隊は運動量が大きいから、これぐらい食べないとシャリバテ、低血糖状態…… 要するに、長時間の運動で身体が燃料切れを起こした状態になって動けなくなってしまうんだ」
大地は楓に対してそう説明する。
「日本陸軍は徒歩の行軍に関しては世界最速なんだが、それを支えるのが一食二合の麦飯なんだよ」
過去、軍ではパン食に切り替えることも検討されたが、「米を食わんと力が出ねぇ」と非難轟々だったので断念した経緯にある。
米二合といえば食パン一斤丸ごとに相当するのでそれを一食分とするには無理があるし、製粉してある分消化が早く米より腹持ちが悪い。
当然といえば当然な結果だった。
大地は自分の食欲に気を取られる一方で、チハの腹具合を確かめることも忘れなかった。
燃料油の残量を確認する。
燃料槽は、被弾しにくい車両底部左右に百二十リットル分ずつ、予備燃料槽に六リットル、合計二百四十六リットル入る。
これを使用して、九七式中戦車チハは二百十キロの行動距離を確保していた。
「もう、四分の一程度しか残ってないな。アウレーリア、燃料を用意するって言ってたけど、どうするんだ?」
「ああ、もうそんなになるか。ちょうど良い。楓、あれを頼む」
「はい」
アウレーリアの指示で楓が取り出したのは紙包みで、中には黒い胡麻のような粒が入っていた。
それは?
大地がそう思ったときには楓が答えていた。
「菜種です」
そして楓はそれに息を吹きかけながら地面に振り撒いた。
すると種がみる間に発芽し、ぐんぐんと伸びて行くではないか。
「はぁっ?」
大地が驚いている間に黄色い菜の花が咲き実が生り、種が弾けて周囲に散らばり、それがまた芽を出し…… と繰り返していく内に周囲一帯が菜種畑と化してしまった。
「これって?」
面食らう大地に、楓は柔らかに微笑んで見せる。
「大異変後に現れるようになった森妖精の方から学んだ神通力です。植物の生長を促す『緑の指』と呼ばれていましたね。私は稲荷大明神の巫女ですが、お稲荷様は食物の神、農業の神ですから」
森妖精というと、天人のように長寿でほっそりとした美しい容姿を持つという。
大地も一度、遠目に見たことがあるが確かに人とは違った繊細な美しさを持つ民だった。
精錬所から出る鉱毒で禿げ山だらけになった国内の鉱山地帯がこの一年足らずの間に緑化されたのも、彼らの助力があったためと聞く。
酸性の土でも旺盛な繁殖力を示すニセアカシアにより緑化された山は養蜂に最適で、アカシア印の蜂蜜、それから作られる蜂蜜酒は特産品にまでなっている。
■ライナーノーツ
> 「チハは水密性が必要な下部は装甲板相互が溶接で貼り合わせてあるから、水深一メートルまでは渡河できるんだが……」
これは、
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